鑑賞「現代の俳句」 (140)                     蟇目良雨

枯野道辿れば草に消えにけり高橋悦男[海]

「俳句四季」2019年12月号
 枯野の句には、芭蕉の〈旅に病んで〉のように人生を表現する態度と、虚子の〈遠山に日の〉のような淡白な客観写生の態度の二つに分けられる。掲句は虚子派に属すると言えようか。しかし、川の源流を探し求めるような求道者の心が作者にあって、枯野道の果てを辿って行くとそこにはまだ青い草があるのをを見つけて安堵している作者の姿が思われる。

崖氷柱冀ひたる翼かな山崎十生[紫・豈]

「俳句四季」2019年12月号
 崖氷柱は崖の高きところにあり、日に照らされては溶けて夜になれば太らされてという定めにあると作者は思ったのだろう。せめて翼を着けてあげて自由に飛び回らせたいと思う気持は読者によく理解できる。句は擬人化されて、崖氷柱が冀(こいねが)う形になっている。作者の優しさと詩心が一句になった。

腸が沁みる齢や秋刀魚喰ふ稲田眸子[少年]

「少年」2019年11月号
 佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の触りは「さんま、さんま、さんま苦いか塩っぱいか。」である。秋刀魚の腸を食べて心に沁みることが秋刀魚を食うときのこだわりであることをこの歌から自然と学んできた。秋刀魚を食べその腸を食べ、「日本人に生まれてよかったなあ」と呟いている作者の姿が見えてくる。

発掘の銅鏡竜田姫のもの大野鵠士[獅子吼]

「俳句界」2019年12月号
 四季がはっきり変化する日本に生まれてよかったと思うのは時候の変化に加え、古人の創意により四季を女性の名前で表現して楽しませてくれた遊び心に依るところも多いのではないだろうか。掲句は秋を竜田姫で表現して私達を古代へ誘ってくれる。
 眼前で発掘された銅鏡はきっと竜田姫が愛用したものだと想像している。遊びをする人(ホモ・ルーデンス)でいつまでもいたいものだ。
 (秋は西の竜田姫、春は東の佐保姫、夏は南の筒姫、冬は北の宇津田姫がいて平城京には東西南北にそれぞれ女神がいたそうな。)

ぼろ市の値札はどれもなぐり書石井いさお[煌星]

「俳句界」2019年12号
 ぼろ市に売っている珍しいものを句にすることも出来るが掲句のように品物に付けられていた値札が殴り書きされていたことを発見して一句になった。印刷された値札と殴り書きされた値札とを比べればぼろ市に相応しいのは殴り書きされた方に軍配が上がるだろう。ぼろ市の始まりの頃もそうであったように、殴り書きされているから「もっと負けろよ」と値引き交渉もやりやすい雰囲気が出ている。同時作〈雪雫一点鎖線引きて落つ〉も写生が効いていると感心した。

風に乗る間際の鶴の羽白し小山五十三[松の花]

「松の花」2019年12月号
 九州出水に近い町の方。鶴を毎年見続けてこられたのだろう。出水の鶴は、主にナベヅルとマナヅルで決して白い鶴ではない。それらの鶴が空高くまで飛んでゆき風に乗る瞬間に羽が白く輝いて見えたという一句である。風に乗ったときの安堵に鶴が羽を左右に傾けたときに発する喜びの白さであったかもしれない。

鴨来る沼の濁りのきのふけふ染谷秀雄[秀]

「秀」2019年冬号
 毎年鴨が飛来する沼の景色。飛来する前に較べて飛来したあとの昨日今日の濁りが濃くなったことを言っているだけであるが、濁りが続く間は鴨を見て楽しめるという作者のうきうきした気持ちが出ている。

秋風や虚子の小諸は日々遠く深見けん二[秀]

「秀」2019年冬号
 虚子が戦中戦後疎開した小諸のことを偲んでいる。作者が若かりしころ虚子に見えてから七十年以上経つ。虚子の信奉者として小諸へ行くことが出来ない現状を嘆くのに秋風は相応しく吹いている。

肌寒や試し書きして書く年齢に奈良比佐子[群星]

「群星」2019年12月号
 年齢を書類に書き込むときに先ず試し書きして確かめる。高齢になると色々な書類に年齢を書きこむことが多くなる。ゆっくりと老いてゆくうちにこういうことも出てくる。書けるうちが華である。

飯茶碗伏せたる中もやませ吹く高野ムツオ[小熊座]

「件」2019年12月号
 東北地方を襲う山瀬は〈やませ来るいたちのようにしなやかに 佐藤鬼房〉来るのである。しなやかに来る山瀬は卓袱台の上にまだ伏せてある飯茶碗の中へも忍び込んでくるというのが作者の発見。みちのくの厳しい風土を現わす句であるが、隙間風も吹かないような現代の住宅環境の中にあって掲句のような作品を得るためには五感を張り巡らさなければならない。

(順不同・筆者住所 〒112-0001 東京都文京区白山2-1-13)