鑑賞「現代の俳句」 (148)                     蟇目良雨

紺夜空白もくれんは帆のごとし鈴木しげを[鶴]

「鶴」2020年7月号
 白木蓮の一片の花の姿を帆のようだと見做した作品である。一見だれにでも出来そうに思えるのだがそうであろうか。この句の眼目は「紺夜空」にある。青天でも曇天でもなく、夜空が紺色に澄み切る刹那に、白木蓮の一つの花にズームインし、さらに一片の花びらをズームアップさせたとき一句が完成した。私ならこの帆船に亡き父母への思いを託し冥界へ送りだすであろう。

杜甫の詩もおほかた忘る霾晦古田紀一[夏爐]

「夏爐」2020年8月号
 霾晦(よなぐもり)とは中国大陸の北西の砂漠から舞い上がった砂塵が偏西風に乗り中国国内はもとより韓国、日本に飛びきたり降ること。空は黄色に染まり、地上に砂塵が溜まる。洗濯ものは汚れ呼吸器を害するまことに厄介な代物だ。さらに数日かけて北米まで到達する。掲句は偉大なる中国が生み出した詩聖杜甫は大好きだがこんなに黄砂を降らせるようでは、流石に杜甫の詩さえ忘れたい気分だと嘆くひとこまと鑑賞した。

深吉野の夜明けを急かす鵤かな朝妻 力[雲の峰]

「雲の峰」2020年8月号
 都会にいては鴉、雀、鵯などの鳴き声しか聞こえぬが、流石に吉野、それもさらに奥の深吉野ならどんな鳥もいそうだ。作者はそこで鵤(いかる)の鳴き声で目を覚ました。鵤は豆回しとも言われ木の実などを食べるとき嘴の中で回しながら食べるのでこの名が付いた。作者は「鳥の盤水」門下で旅を好み鳥を愛でてきたから鳴き声からすぐに鵤と断定できた。鵤は聞きなしで「ひしりこきり」「つきひほし」と鳴いているようだが、私には「ちちこいし」と聞こえる。

ごきぶりの鬚にただよふ妖気かな高野清風[雲の峰]

「雲の峰」2020年8月号
 ごきぶりが嫌いな人は多いようだ。我が家でも娘一家は大嫌いで見つけるとすぐに捕ってくれとやってくる。ティッシュで簡単に捕るのを信じられないような目で見ている。ごきぶりも小粒のものがぞろぞろいると厭な気分になるが空を飛べるような大きなごきぶりは見ていて飽きない。なにせ一億年前から地上に生息している大先輩なのだ。長い鬚(触覚)の機能こそ一億年を生き延びてきた命なのである。妖気が漂うのは当たり前だと同感した。

落ちてゐしマスク迂回の蟻の列水田光雄[田]

「田」2020年7月号
 普段の俳句作りではこんなことは詠わないだろう。冬のマスクの周りを夏の蟻が歩くはずがないからだ。そこでこの異常な光景は私達を現実に引き戻す。新型コロナウイルスが収束しないまま夏を迎えた記録の一こまなのである。

さくらんぼ湯殿山から雨晴れて菅野孝夫[野火]

「野火」2020年8月号
 さくらんぼの季節は梅雨のころにあたり、湿気の多い空気がサクランボの柔肌にはいいのであろう。私たちは東根のさくらんぼを思いだすが、このあたりから見えるのは月山である。湯殿山が見える地域はといえば六十里越え街道から見た光景なのであろう。さくらんぼと湯殿山の組み合わせが意外に新鮮に感じられた。

山水にしろがねの鯉沙羅の花佐藤公子[松の花]

[松の花]2020年8月号
 動詞を使わない即物的な句であるが山村の空気が感じられて気持ちの良い句である。しろがねの鯉を錦鯉のひとつと鑑賞すると生活感が無くなる。山水を引いた池に長く飼われていた鯉なので白銀に見え、やがて訪れる晴の日の料理に供されるのを待っているとすると生活感に溢れた光景になる。

東京や梅雨のマスクのまま別れ今瀬剛一[対岸]

「対岸」
 この句の「東京」は効いている。「盛岡や」としたら新型コロナウイルス罹患者ゼロの岩手県なので無意味になるだろう。流石大都会東京と自慢しているのでなく恐ろしい東京と言っている。梅雨どきもマスクを外せない東京に別れを告げ作者は水戸に帰る。そこには安全な生活があると作者を知ればわかるはずだ。

方丈記読む灯は別に秋の夜大石悦子[鶴]

句集『百囀』より
 秋灯下で「方丈記」を読む光景だがこの句を見るとしみじみと言葉の持つ力を感じさせられる。普通に鑑賞すると、「方丈記を読むので書斎に戻って書斎の灯で読みたくなる秋の夜ですね」とでもなろうか。例えば今いる居間の灯から書斎の別の灯にというように。ベテランの作者がその程度のことで満足するはずがない。書斎に点す灯は方丈記の作者が点したと同じ蠟燭の灯と思いながら読むつもりですと心は鎌倉時代に遡っているのである。「灯は別に」を私はこう読んでみたがいかが。

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