鑑賞「現代の俳句」 (40)                  沖山志朴

足湯小屋に足を並べて初音聞く佐々木潤子〔しろはえ
[俳壇 2024年5月号より]
 仙台市郊外の秋保温泉にある、庭園、日帰り温泉などが一体となった天守閣自然公園での作とある。小高い丘の上の四阿には、敷地内の源泉を利用した足湯があり、一息つくにはちょうどよい場所とのこと。
 眺望のよい四阿。誰かが鶯の鳴き声に気付く。皆が話をやめて、一斉に鳴き声の方に耳を澄ます。うっとりとその鳴き声を聞きながら、本格的な春の到来を感じる。足湯の心地よさ、久しぶりに聞く鶯の鳴き声。身も心もすっかりほぐれてゆくのを感じる長閑な春の昼のひと時である。触覚と聴覚との融合が見事である。

花びらのととととはしり弓道場名取里美〔あかり〕
[俳壇 2024年  5月号より]
 解説に、北鎌倉の円覚寺の境内の山門近くにある弓道場での作とある。「とととと」のオノマトペの巧みさに感心した。おそらく、風で花びらがあたかも生きているかのように立ち上がり、駆けるように、滑るようにして移動したのであろう。
 弓を射る人たちの無言の所作。緊張した弓道場全体の雰囲気。その中を一斉に風で舞ったり、移動したりする花びら。その静と動の対照が印象的に描かれていて見事である。

とれさうな釦のやうに燕の子大川ゆかり〔沖〕
[俳壇 2024年5月号より]
 思いもつかないような比喩を用いた句である。その着想の的確さや俳諧味に思わず感心してしまった。糸が伸び切って、今にも取れそうな釦も気がかりであるが、成長した子燕達が、狭い巣から今にも落ちそうになりながら、親から必死に餌をもらおうと騒ぐ様子も、見ていてはらはらするもの。
 燕の子の句は、これまでにもたくさん作られていて、歳時記にも例句は多く掲載されている。また、似たような比喩や語彙を連ねている句も少なくないと感じる。時には思い切って発想や見方を変えて、一句を仕立てることが大切であるということを掲句は教えてくれているように思う。

ものの芽に内緒話のやうな風舘野まひろ〔秋草〕
[俳句四季 2024四年5月号より]
 「ものの芽」は、特定の植物の芽吹きを指すのではない。春になって芽吹く木だけではなく、広く草などをも含めた植物全体の芽吹きを指す季語である。それら芽吹いた木や草の芽へと、まるで内緒話でもするかのように風が優しく吹き渡ってゆくという。
 「内緒話のやうな風」という言い回しが独特である。繊細な感覚で、春先の自然をまるでメルヘンの世界のように明るくまとめた想像力豊かな句である。

足で描く陣地の円や花あんず大和田アルミ〔唐変木
[俳句四季 2024年5月号より]
 あんずは、「からもも」とも呼ばれ、長野県などに多く栽培されている。4月ころ、桃などよりも一足先に花を咲かせる。気温も上がり、迎えた春。今まで家の中で過ごすことの多かった子ども達も、戸外に出て大勢で遊びを楽しむ。
 二組に分かれ、円を描いては、互いの陣地を取り合う。明るいあんずの花の咲き盛る傍らで、夢中で遊ぶ子ども達。靴の先で、それぞれ陣地を描いては、また、次のゲームに移る。子ども達の元気に、そして楽しそうに遊んでいる光景を象徴的に言い表した句である。

ふらここに坐れば空の懐かしき矢口晃〔元「銀化」〕
[俳句 2024年5月号より]
 休日の散歩の途中ででもあろうか。久しぶりに公園のふらここに坐ってみたのであろう。するとなぜか心が落ち着く。
 ふと空を見上げる。久しくじっくりと見上げることのなかった青空の澄んでいて美しいこと。そして、思いがけず幼いころの記憶がよみがえってきて懐かしくなり、しばしその青空を見上げ続ける。毎日、時間に追われ、慌ただしく動き廻る現代人に向かって自然をもっとよく見てよと、アドバイスしているような気もする。

里神楽鬼が台詞を忘れけり亀井雉子男〔四万十・鶴〕
[俳句界 2024四年5月号より]
 里神楽は、宮中以外で行われる神楽のこと。五穀豊穣を祈ったり、豊作を神々に感謝したりする心から生まれた芸能。娯楽の少ない時代、人びとの楽しみの一つともされてきた。 この神楽も村の有志が練習を積み重ね、迎えた本番なのであろう。肝心な場面で、鬼が台詞を忘れてしまい、大慌て。観客席からは大きな笑い。怖い鬼が台詞を忘れてしまったというところが掲句の眼目。