鑑賞「現代の俳句」 (44)                沖山志朴

囂(かしま)しく響めいてゐる椋鳥の群れ片桐基城〔草樹〕
[俳壇 2024年9月号より]
 小林一茶に〈椋鳥と人に呼ばるる寒さかな〉という句がある。江戸時代、地方から江戸へ出稼ぎにやってきた人たちをそう呼んで、揶揄したりすることがあったという。その椋鳥は、多い時には数万羽もの群を作って行動する。夕刻、都市部の銀杏や欅などの並木の塒に集まってくる椋鳥の鳴き声は、想像を絶する騒がしさとなり、糞害などとも相まって時には社会問題化したりする。
 掲句では、次々と塒に集まってくる椋鳥の群のやりきれないほどの騒がしい鳴き声に焦点を当てている。市街地の高い建物に反響して鳴き声はますます高まる。不快なその鳴き声を、囂し、響めく、と類義の語を重ねながら、強く印象づける工夫をしていて効果を上げている。

梯梧咲く地下に埋もれしものの声小瀬寿恵〔燎〕
[俳壇 2024年9月号より]
 梯梧は、夏の季語。長い房状の花序を出し、緋赤色の花をたくさん咲かせるのが特徴。日本では、沖縄が北限とも言われ、沖縄の県花ともなっている。掲句もおそらく沖縄で作られたものであろう。
 第二次世界大戦末期、周知のように沖縄では、国内最大の地上戦が展開され、住民や日本軍の兵士など20万人もの尊い命が失われた。燃えるような梯梧の花は、筆舌に尽くしがたい最期を迎えた多くの人々の無念の思いの具象化された花でもあると訴える。

かなかなや鎮守に残る開拓碑伊原文夫〔深吉野〕
[俳句四季 2024年9月号より]
 先人達が想像を絶するような苦労をしながら切り拓いた土地。その苦労を忘れないようにと、村人達が社の境内に立てた開拓碑。一時は賑やかであった村も、次第に人口が減少し、今ではご多分に漏れず寂れた村となってしまったのであろう。
 蜩の鳴き声は寂しい。それが夕暮れなどに、一斉に鳴き出すと、まるで異界にでも引き込まれたかのようで、もの悲しくなる。碑文には、壮絶な開墾の苦労も記されているのであろう。そのような人々の苦労を蜩の鳴き声に重ねては、感慨に耽る作者の姿が髣髴としてくる。

新茶淹れもの言ふ人となつてをり中川正男〔みづうみ〕
[俳句四季 2024年9月号より]
 色、香り、味・・。どれをとっても日本人には、新茶は格別な存在である。その新茶の魅力を新茶そのものの味や香りではなく、新茶を味わった人の内面の変化を通して表現しているのが掲句である。
 特に工夫されているのが、「なつてをり」の「をり」である。この措辞により、描かれている人の内面や行動に変化が生じたことが暗示されている。そして、同時に新茶がいかに人の心を豊かにしてくれる価値あるものであるかと、その魅力を讃えている。

黙禱で始まる句座や蟬しぐれ矢作十志夫〔あだち野〕
[俳句 2024年9月号より]
 「蟬しぐれ」は夏の季語であるから、広島原爆の日の句会場での黙祷の場面を詠った句ではないかと想像した。原爆の日の黙祷の句はよくあるが、句座の光景としてそれを取り上げたのは珍しい。
 掲句は、対照的な二物の取り合わせの句となっている。中七までは、多くの人の死を悼み、平和を祈念する人々の無言の行為。下五は、「蟬しぐれ 」という窓外の自然の騒がしいほどの営み。沈黙の空間と騒がしい自然の営み。この対照的な措辞により一句が息づいている。

雀の子土俵の土を浴びに来る工藤義夫〔馬醉木〕
[俳句界 2024年9月号より]
 雀の砂浴びは、寄生虫を取り除いたり、羽の汚れを取ったりするために行うもの。雀が生きていくために、まさに欠かすことの出来ない健康維持・管理のための営みである。
 一方、土俵はというと、まさに力士達が激しく体をぶつけ合い、その勝敗を競う場。その闘いの場の土で子雀たちが、寄生虫を取り除き、汚れを落としているという対照が面白い句である。

草の花こんな小石に躓きて池田和子〔鳰の子〕
[俳句界 2024年9月号より]
 自分はまだまだ若い、そう思って常日頃行動していた。しかし、道端の草の花に見とれつつ歩いているうちに、図らずも小石に躓き、危うく転びそうになってしまった。ああ、もう若くはないのだ、そう実感し、自らに言い聞かせた句である、と想像した。
 だれしも自分はまだまだ若いと思っていても、ある日突然、老いの迫ったことを自覚させられるときが来る。それをしかと認めた一瞬であろう。一抹の寂しさが漂う句である。