古典に学ぶ (79)令和を迎えて読み直す『万葉集』の魅力
─ 「梅花の宴」の意味するもの⑦
実川恵子
「梅花の宴」の最後に位置するのは、小野氏淡理(おのうぢのたもり)の、
霞たつ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも
(霞が立っている長い春の日じゅう、髪に挿しているが、ますます手放せない梅の花であることよ)
という締めくくりの意味を持つ歌である。この歌は、前歌の「散らずありこそ」(散らずにあってくれ)をうけて詠まれ、「梅花の宴」全体に対して、どのような役割を果たしているのか。
作者淡理と主催者旅人との関係性は不明だが、淡理はこの日の宴で幹事役を仰せつかり、また進行役をも務めたのであろう。この歌は、その立場から考えると、「一日中かざしにかざしてもますます心ひかれてしまう梅の花とはー」と尽きぬ名残をとどめて一座を締めくくった。上手な締めくくりであるといえよう。
このように、梅花の集いは余韻をこめて終わった。こうして三十二首の一連の歌を詠むと、それぞれ32人の人々の心には、物事に感じて心を動かされた感慨ひとしおの思いが胸にやどる。そして、なにより楽しげであったことが思われる。
この宴は、前に詠った人の歌に耳をすまし、気を配り自らの歌を詠う。それが、三十二首の緊密なまとまりとなり、この梅花の宴が一挙に花開いたのである。
旅人と憶良を除き、この宴の一首一首には、取り立てて秀詠はない。しかし、「園梅」という課題を共に詠みあい、どの歌もそれぞれの位置をしめ、互いの関連において息づいた。そして、乱れぬ体系を達成し得たのである。旅人宅の梅の花の咲きほこる下で、旅人を前にして和歌を詠みあったのである。
我らの詩の宴、つまり人間が集団として生きるすばらしさ、心通う世界であったのである。こうして一連の三十二首を読んでくると、この「梅花の宴」冒頭の序文後半に、
そこで、天を屋根にし地を席(むしろ)にし、互いに膝を近づけ酒杯をまわす。一座の内では言うことばも忘れるほど楽しくなごやかであり、外の大気に向かって心をくつろがせる。さっぱりとして各自気楽に振舞い、愉快になって各自満ち足りた思いでいる。
もし文筆によらないでは、どうしてこの心の中を述べ尽くすことができようか。
とあるように、梅の花を愛で、酒を酌み交わすだけではこの喜びの気持ちを言い表すことはできない。この思いを文章あるいは言葉にまで高めなければならない、というのが旅人の考えであった。ここには明らかな文学的自覚がある。旅人の考えは、彼の息子、大伴家持の「うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しも独りしおもへば」(巻19・4292)という歌に通じる「抒情」という行為の重要性に、我が国で最も早く気づいた人々であったということができる。彼らにとって、「情をのべる」ということは、文学の存在理由がここにあると気づいていたということなのだろう。そのような意味で、この大宰府の大伴旅人邸で催された「梅花の宴」は、文化史的観点から見て重要な意義を持つものといえよう。
初春のよき月、気は澄んで快く風は穏やかである。32人が一堂に集い、美しい梅の花の咲き散る中で、我らの詩の園を心ゆくまで楽しんだのである。新元号「令和」はまさにこうした世界に通じているのだ。
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