春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

曾良を尋ねて(124) 2019年12月号

人一倍情に厚い曾良が芭蕉の臨終にも立ち会わず葬儀にも参列しなかった理由は、ひとえに吉川神道の教えに従ったのではないかと推測される。

鑑賞 「現代の俳句」(139)2019年12月号

じやあと手をさはやかに挙げ振り向かず 檜山哲彦

古典に学ぶ (77)万葉集の魅力 (5)2019年12月号

古典に学ぶ (77)令和を迎えて読み直す『万葉集』の魅力 ─  「梅花の宴」の意味するもの⑤   上席の歌詠が終わり、下席へと盃が回り、歌が続いて詠み継がれていく。下席の座の順序は、上席ほど明確な秩序はない。到着順や年長を先に立てるというようなことがあったのであろう。だが、その歌々の反応や照応の関係は、上席にまさるとも劣らないようである。   

はいかい漫遊漫歩(124)(125)2019年12月号

 時は元禄14年(1701)旧暦3月14日巳の下刻(午前11時半過ぎ)、前を行く高家筆頭、吉良上野介の背後から浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたか」と叫んで礼式用の小刀で切りつけ、振り返った上野介の眉の上を傷つけた。さらに切りつけようとする内匠頭を居合わせた大奥御台所付き留守居番、梶川頼照(通称与惣兵衛)が羽交い絞めにし、側にいた御坊主(茶坊主)、関久和に「坊主、早く刀を取り上げろ」と怒鳴った。剃髪していても武士職分の久和、すばやく小刀を奪い、内匠頭は取り押さえられた。 内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛は、この手柄で五百石加増され、千二百石取りの旗本に昇進。内匠頭の手から刀を取り上げた茶坊主、関久和は、白銀30枚を下されたが、御褒美辞退を申し上げた。この出処進退が城中城外に伝わるにつれ、2人は毀誉褒貶の渦中の人となる。  和漢、仏典合わせて123書目に眼を通し、不動の注釈書『奥細道菅菰抄』を書き上げた蓑笠庵(さりゅうあん)梨一。梨一は、前話で松の廊下刃傷沙汰の事件現場に居合わせた御坊主、関久和の次男。梨一は、高橋氏、名は髙(干)啓。正徳4年(1714)、武蔵児玉に生れた。幼時より治農の道を悟り、諸郡令に従って30余年間諸村を歴治した。元文の末頃柳居(註:蕉風の復古に努めた佐久間柳居。幕臣の俳人)に就いて俳諧を学び、明和初年越前丸岡に退き、この地に18年とどまり天明3年〈1783)、70歳で没した。その人となりは、伊東祐忠の『蓑笠庵梨一伝』に「清貧寡欲、家事を修めず、会計総て人に任ね、性来酒を好み、行遊散歩を事とす」とある。

韓の俳諧(10)2019年12月号

海外詠の先駆者 海外へ旅行あるいは居住して詠んだ俳句(海外詠)の先駆者として普通に認められているのは、万延元年の遣米使節団の加藤素毛だが、より早く釜山に滞在した対馬藩士松村弥平太の句が残されている。加藤素毛は、支考が芭蕉を祖として立てた美濃派の獅子門の俳諧をたしなみ、俳誌 獅子吼は今に繋がっている。

「俳句文法」入門 (10) 2019年12月号

 語尾がナ行のナニヌネの四音に活用する動詞をナ行変格活用(ナ変)という。死ぬ・往(去)ぬ、の二語のみ。連体形と已然形に注意する。  死〈な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね〉と活用する。ナ行に活用する四段活用の動詞は他になし。

自由時間 (77) 2019年11月号

初代吉右衛門は、趣味に俳句、弓道、書、小唄などをたしなんだ。いずれも玄人はだしである。「秀山」とは初代吉右衛門の俳名である。小宮豊隆の「中村吉右衛門論」その冒頭で「文壇で会つて見たいと思ふ人は1人も居らぬ。役者の中では会つて見たいと思ふ人がたつた1人ある。会つて見たら色々の事情から多くの場合失望に終はるかも知れぬ。夫にも拘らず藝の力を通して人を牽き付けて止まぬ者は此の唯一人である。此唯一人とは云ふ迄もない、中村吉右衛門である」

曾良を尋ねて(123) 2019年11月号

曾良が芭蕉の臨終にも、義仲寺の葬儀にもまた江戸での追悼歌仙にも追悼吟は手向けたが出ていない。この件においては謎であるが、一つ考えられるのは、曾良の親代わりで生涯後ろ盾として支えてきた吉川惟足が翌月亡くなっていることが原因ではないかとも思われる。

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