子規の四季(81) 病牀での悟り 池内けい吾
余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
明治35年6月2日付の『病牀六尺』に、子規はこう書いた。病床から一歩も動けない生活のなかで、子規が到達した心境を端的に表現したものといえよう。
6月5日午後六時、子規は身動きできない自身の病床を取り巻くものを描写した。6月7日付の『病牀六尺』に掲げられたのは、下記のような品々である。
かつて盛んに各地を旅した頃の蓑と笠、伊達政宗の額、向島百花園の晩秋を描いた水彩画など。
写真双眼鏡は、活動写真が見たいというと門人の古洲が気をきかして贈ってくれたもの。眼鏡を掛けてスライド写真を見ると、写された景物が立体的に見える装置である。
河豚提灯、喇嘛教の曼陀羅、二枚の大津絵なども門人からの贈り物で、頭上に吊したり襖に貼られている。
丁字簾は朝鮮在住の人からの贈り物で縁側に掛けてあり、簾を透して隣の羯南宅の竹藪のそよぎが見える。
床の間に活けた花菖蒲と蠅取撫子は、二、三日前に律が堀切へ行って採ってきた。花活けは香取秀真作。
美女桜、ロべリヤ、松葉菊などは碧梧桐持参の盆栽で、床の間の前に並べてある。
庭には信州から贈られた黄百合や、美人草、銭葵、薔薇など。椎、樫、松、梅、ゆすら梅、茶などの木も。
枕元に散らかっているのは、絵本や雑誌など十数冊、置時計、寒暖計、硯、筆、唾壺(だこ)汚物入れの丼鉢、呼鈴、まどの手、ハンケチ、〈其中に目立ちたる毛繻子(けじゅす)のはでなる毛布団一枚、是は軍艦に居る友達から贈られたのである〉とあるのは、秋山真之のことだろう。
6月13日の『病牀六尺』は、枕元の硯について書かれている。
道具の贅沢などは一切しようと思はぬが只硯許りは稍々よきものをほしいと思つてゐた。併し二円や三円のはした金では買へぬと聞いてあきらめてゐた。所がどういふわけだか近頃になつて益それがほしくなつたけれど、今更先の知れた身で大金を出すのも余り馬鹿々々しいので仕方なしに在り来りの十銭か十五銭の硯ですましてゐると、碧梧桐が其亡兄黄塔(きとう)の硯を持つて来て貸して呉れた。(中略)十五銭位の勧工場物とは固より同日の論では無い上に、黄塔のかたみであることが、何となくなつかしく感ぜられて朝夕枕もとに置いて寝ながらのながめものになつてゐる。
墨汁のかわく芭蕉の巻葉かな
芍薬は散りて硯の埃かな
五月雨や善き硯石借り得たり
6月20日付の『病牀六尺』で、子規は自身の病状の推移に触れて次のように書いた。
若し死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである。併し死ぬることも出来ねば殺して呉れるものもない。一日の苦しみは夜に入つてやうやう減じ僅に眠気さした時には其日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思ひやられる。寝起程苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか 、誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。
すると21日の朝、20日付の『病牀六尺』を読んだ読者(本郷の某氏)から一通の手紙がとどいた。6月23日付の『病牀六尺』に、子規はこの手紙を紹介するとともに自身の感想を記した。
拝啓昨日貴君の病牀六尺を読み感ずる所あり左の数言を呈し候
第一、かゝる場合には天帝又は如来とゝもにあることを信じて安んずべし
第二、もし右信ずること能(あた)はずとならば人力の及ばざるところをさとりてたゞ現状に安んぜよ 現状の進行に任ぜよ 痛みをして痛ましめよ 大化のなすがまゝに任ぜよ 天地万物わが前に出没隠現するに任ぜよ
第三、もし右二者共に能はずとならば号泣せよ煩悶せよ 困頓せよ 而して死に至らむのみ
小生は嘗て瀕死の境にあり肉体の煩悶困頓を免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安静を得たり これ小生の宗教的救済なりき 知らず貴君の苦痛を救済し得るや否を 敢て問ふ病間あらば乞ふ一考あれ(以下略)
此親切なる且つ明鬯(めいちょう)平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであつて、余の考も殆んど此手紙の中に尽きて居る。唯余に在つては精神の煩悶といふのも、生死出離の大問題ではない、病気が身体を衰弱せしめたゝめであるか、脊髄系を侵されて居る為であるか、とにかく生理的に精神の煩悶を来すのであつて、苦しい時には、何とも彼とも致し様の無いわけである。併し生理的に煩悶するとても、其の煩悶を免れる手段は固より『現状の進行に任せる』より外は無いのである。号泣し煩悶して死に至るより外に仕方の無いのである。
自身の生命の行く末を冷静に見つめている、子規の「悟り」のこめられた一文ではないだろうか。
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