子規の四季(83) 渡辺のお嬢さん 池内けい吾
明治三十五年(1902)8月20日(水)晴。この日『病牀六尺』の連載が百回に達した。〈百日の月日は極めて短いものに相違ないが、それが予にとつては十年も過ぎたやうな感じがするのである〉と子規は記した。
この日の午後、子規が朝顔の写生をしているところへ、鈴木芒生、伊東牛歩の二人の俳人が訪れた。それからの出来事を、子規は8月24日の『病牀六尺』に恋愛小説を思わせる筆致で述べている。二人の俳人は孫生、快生の名で登場する。
孫生がいふには、実は渡辺のお嬢さんがあなたにお目にかゝり度いといふのですがと意外な話の糸口をほどいた。さうですか、其はお目にかゝり度いものですが、といふと、実は今来て待つておいでになるのです、といはれたので、余は愈々(いよいよ)意外の事に驚いた。其うち孫生は玄関の方へ出て行て何か呼ぶ様だと思ふとすぐ其渡辺のお嬢さんといふのを連れて這入つて来た。前からうすうす噂に聞かぬでもなかつたが、固(もと)より今遇はうとは少しも予期しなかつたので、其風采なども一目見ると兼て想像して居つたよりは遥に品の善い、其で何となく気の利いて居る、いはゞ余の理想に近いところの趣きを備へて居た。
子規は「渡辺のお嬢さん」の美しさに夢中になってしまう。暫くして、三人は暇ごいをして帰りかけた。
今帰りかけて居る孫生を呼び戻して私(ひそか)に余の意中を明してしまふた。余り突然なぶしつけな事とは思ふたけれども余は生れてから今日の様に心をなやました事は無いので、従つて又今日の様に英断を施したのも初めてゞあつた。孫生は快く承諾して兎に角お嬢さんだけは置いて行きませうといふ。其から玄関の方へ行て何かさゝやいた末にお嬢さんだけは元の室に帰つて来て今夜はこゝに泊ることゝなつた。
お嬢さんと話しをしようと思ううちに、子規は草臥れて眠ってしまう。翌朝起きると、孫生、快生連名の手紙が届いていた。子規は胸をどきどきさせながら封を切った。
昨日あれから話をしてみたが誠によんどころ無いわけがあるので、貴兄の思ふ様にはならぬといふ事であつた。併しかしお嬢さんは当分の内貴兄の内に泊つて居られても差支無いといふのである。失望といはうか、落胆といはうか、余は頻りに煩悶を始めた。
お嬢さんを諦め切れない子規は、煩悶に堪えられず〈若し余の身にかなふ事ならどんな事でもするが〉などと、その日のうちに孫生、快生へ二通の返信を認め、第二便の文末には恨みの一句を添えた。
草の花つれなきものに思ひけり
その次の日、すなわち8月22日の午後三時頃、隣の陸くが家へ子規宛の電話があった。
隣のうちの電話は一つの快報を齎らして来た。其は孫生、快生より発したので、貴兄の望み通りかなふた委細は郵便で出す、といふ事であつた。嬉しいのなんのとて今更いふ迄も無い。
お嬢さんの名は南岳草花画巻。(ヲハリ)
お嬢さんの正体が草花を描いた南岳の百花絵巻であることが、文末で明かされたわけだ。子規庵での百花絵巻をめぐる経緯については、孫生こと鈴木芒生が「先生の南岳草花画巻を得給ひしこと」と題して「ホトトギス」子規追悼集に寄せた文章も残されている。
鈴木芒生は明治十一年静岡県生まれの俳人で、本名孫彦。山口高等商業学校教授などを勤めた人である。明治二十五年の夏には、伊勢四日市の任地を辞して上京し、本所のある寺に泊まっていた。寺の住職の丁堂も寺に寄宿中の僧・牛歩も俳人で、三人連れ立って久しぶりに子規の病床を見舞おうということになった。ところが住職は急用ができたため、かねて一度子規に見せたいと思っていた住職所蔵の南岳の百花絵巻を芒生、牛歩の二人が借り受けて子規庵を訪れたのである。
子規は「南岳草花画巻」がどうしても欲しくなり、譲り受けたいという。懇願された二人は困ってしまう。住職秘蔵の絵巻をかなり強引に借りてきたからだ。子規は聞くだけでも聞いてみてくれという。帰って丁堂住職に話すと、気の毒だが譲ることはできない、その代わりいつまでも先生の所に置いて、長く病床の慰めにしても差し支えないということであった。子規は自筆の短冊十枚と、二、三十円で譲ってもらえないかと第二便で頼んできた。だが、住職の答は否である。二人は根岸に住んでいた碧梧桐を訪ねて相談した。
碧梧桐は、こんな提案をする。表向きは南岳画巻を子規に譲った形にし、子規没後には責任をもって返却するということにして、碧梧桐、芒生、牛歩連名の一札を入れてはどうか。この案を丁堂も了承し、陸家への電話による快報となったのであった。
子規は8月31日の『病牀六尺』にこう記した。
予が所望したる南岳の草花画巻は今は予の物となつて、枕元に置かれて居る。朝に夕に、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延びるやうな心地がする。(中略)この大事な画巻を予のために割愛せられたる澄道和尚の好意を謝するのである。
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