子規の誕生日
池内けい吾
子規が生まれたのは、慶応3年(1867)9月17日の午前9時頃であった。生誕地は伊予国温泉郡藤原新町(現在の松山市花園町)。松山藩士であった父正岡隼太常尚35歳と母八重23歳の間の初めての子として誕生し、常規(つねのり)と
命名される。幼名を処之助と称したが、4、5歳頃に升のぼると改めた。そのため、親しい人々は生涯を通じて「のぼさん」と呼んだのである。八重は後妻で、常尚には先妻との間に一男があったが夭折したため、子規は戸籍上は二男だが実質的には長男として育てられた。
ついでながら、徳川十五代将軍慶喜が大政奉還をした、この慶応3年という年には、1月5日に夏目漱石、6月23日に幸田露伴、12月16日に尾崎紅葉が、いずれも江戸で生まれている。
子規を含めた上の誕生日は、いずれも旧暦の月日。子規の誕生日は、新暦では10月14日である。しかし、子規は自身の誕生日をずっと旧暦で祝っていたようだ。妹律の思い出話によると、根岸に親子3人で暮らすようになってからの子規は、毎年旧暦9月17日には赤飯を炊かせ、隣の陸羯南宅へも届けさせていたという。
明治34年(1901)10月27日、子規は1日繰り上げて34歳の誕生祝いをした。『仰臥漫録』には、こう記されている。
十月二十七日 曇
明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日ニ繰リ上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取リ寄セ家内三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布ノ中ヨリ出タル者ニテイササカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋け だシ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。料理ハ会席膳ニ五品
○サシミ マグロトサヨリ 胡瓜 黄菊 山葵
○椀盛 莢さ やゑんどう豌豆 鳥肉 小鯛ノ焼イタノ 松まつたけ蕈
○口取 栗ノキントン 蒲鉾 車鰕 家鴨 煮蒲( ママ) 萄
○煮込 アナゴ 牛蒡 八ッ頭 莢豌豆
○焼肴 鯛 昆布 煮杏 薑はじかみ
「例の財布」とあるのは、子規が「突飛な御馳走」を食べるための小遣銭が欲しくなり、虚子から借りることにした20円のうちの11円と、所蔵の俳書すべてを譲渡する約束で、岡麓から受け取った前金2円などを入れて寝床の上にぶら下げていたもの。律が縫った赤と黄の段ダラの袋状の財布に、麓がくれた更紗の銭入れ袋もそのまま入れてあったらしい。
岡野の料理2人前を3人で食べたとあるから、1人前を子規が食べ、母と妹でもう1人前を食べたのであろう。豪華な会席膳は、病床で刺身ばかり食べている子規にも珍味であった。まして平生は香の物ばかりで済ませている八重と律にとっては、この上ないご馳走であったろう。
この日の『仰臥漫録』は、1年前の誕生日の回想に及ぶ。
去年ノ誕生日ニハ御馳走ノ食ヒヲサメヲヤル積リデ碧四虚鼠四人ヲ招イタ。此時ハ余ハイフニイハレヌ感慨ニ打タレテ胸ノ中ハ実ニヤスマルコトガナカツタ。余ハ此日ヲ非常ニ自分ニ取ツテ大切ナ日ト思フタノデ先ヅ庭ノ松ノ木カラ松ノ木ヘ白木棉を張リナドシタ。コレハ前ノ小菊ノ色ヲウシロ側ノ鶏頭ノ色ガ圧スルカラ此白幕デ鶏頭ヲ隠シタノデアル。
1年前すなわち明治33年11月8日(旧9月17日)
の誕生祝に招かれたのは、河東碧梧桐、坂本四方太、高浜虚子、寒川鼠骨の4人。子規は案内状を出すときに、それぞれに異なる色にちなんだ食物か玩具を土産として持参するよう依頼していた。まず「赤」の題を出された虚子は、ニコライ堂などで見られる真っ赤に染めた茹で卵を持ってきた。鼠骨は「青」の題で青蜜柑、四方太は「黄」の題で蜜柑と張子の虎。碧梧桐の「茶」と子規自身の「白」は、何であったか忘れたという。
食後は5人で話が弾んで、子規にとっては日頃の不安心不愉快を忘れるほどの実に愉快でたまらない誕生日であった。
ソレニ比ベルト今年ノ誕生日ハソレ程ノ心配モナカツタガ余リ愉快デモナカツタ。体ハ去年ヨリ衰弱シテ寐返リガ十分ニ出来ヌ。ソレニ今日ハ馬鹿ニ寒クテ午飯頃ニハ余ハマダ何ノ食慾モナカツタ。ソレハ昨夜善ク眠ラレヌノデ今朝ハ泣カシカツタ。ソレデモ食ヘルダケ食フテ見タガ後ハ只不愉快ナバカリデ且ツ夕刻ニハ左ノ腸骨ノホトリガ強ク痛ンデ何トモ仕様ガナイノデ只叫ンデバカ
リ居タ程ノ悪日デアツタ。
翌日が旧暦9月17日で、まさに子規の誕生日。『仰臥漫録』にはこう記されている。
十月二十八日 雨後曇
午後左千夫来ル 丈ノ低キ野菊ノ類ヲ横鉢ニ栽ヱタルヲ携ヘ来ル 鼠骨来ル繃帯取換ノ際左腸骨辺ノ痛ミ堪ヘ難ク号泣又号泣困難ヲ窮ム
此日ノ午飯ハ昨日ノ御馳走ノ残リヲ肴モ鰕モ蒲鉾モ昆
イモ皆一ツニ煮テ食フ コレハ昨日ヨリモ却テウマシ
オ祭ノ翌日ハ昔カラサイノウマキ日ナリ
晩餐ハ余ノ誕生日ナレバニヤ小豆飯ナリ 鮭ノ味噌漬ト酢ノ物(赤貝ト烏賊)ノ御馳走ニテ左千夫鼠骨ト共ニ食フ食後話ハズム 余モイツモヨリ容易クシヤベル 十時頃二人去ル
明治35年9月17日、子規は赤飯で誕生祝いをした。羯南宅へも届けた。新暦の9月17日を祝うのは初めてであった。その2日後の19日未明に子規は亡くなった。
最後の誕生日祝いについて、直後に碧梧桐が書いた文章が残されている。
今年は前から驚く程の衰弱と苦痛に気を揉んだので、看護人の我等はそんな事に気もつかなかつたが、家人の注意で赤飯位は焚かれたけれども、それも喉を通らなかつたさうだ。それから九月十六日は丁度名月で十八日は十七夜であつた処から、辞世の三句が出来たのである。
名月誕生日それに自分の死ぬるといふ日などが殆ど同日に来るといふ事が如何に其頭を刺撃したであらうか、口がきければ何とか言はれたらうと思ふが、もうその時は何事をも言ふ気力がなかつた。が、それにしてもよくまア三句の辞世がよく出来たもので、其筆力なども更に平生にかはる処がなかつたのはどこ迄気力の存して居つたか測り知られない。
(「俳話断片」明治35・9・28より)
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