曾良を尋ねて (101) 乾佐知子
ー大久保長安に関する一考察Ⅱ―
大久保長安が家康の命により松平忠輝の付家老をしていたことはあまり知られていない。
意外な組合せと思う方もあろうが、この二人は出自が似ていること以外にキリスト教や異国人とも親密であった、という共通点があった。
長安は元来渡来人として猿楽を業とし、各地を漂泊する民であった。同様に忠輝の母の「お茶阿の方」も元々は「道々の民」と呼ばれる賤民の出なのだ。
ある日鹿狩りに来た家康がたまたま陳情に現れた女を見染めて湯女として城中に入れ、後に側室にしたのである。
流浪の民として自由の身分であった母のDNAを持った忠輝は、幼少の頃から自由奔放で、秀忠や気位の高い「お江与の方」には受け入れがたい存在であったと思われる。
長安には七男二女がおり、各々が各大名と婚姻関係を持っていた。妻は池田輝政の娘である輝龍の四女で、娘は伊賀の服部半蔵の次男に嫁ぐなど、その人脈は多岐にわたっており、更に忠輝をはじめ伊達政宗、大久保忠隣等権力を持った人物を庇護者とする等己の地位の確立を謀っていたと思われる。
しかしこれらの長安の派手な振舞いや莫大な蓄財力そして革新的な性格は、幕府内には少なからず面白く思っていなかった者がいたのではなかろうか。
慶長18(1613)年4月に長安が六十九歳で中風に倒れて死に至ると、事態は一変したのである。
遺体を金棺に収め甲斐で盛大に執り行われる準備をしていたわずか五日後、家康より突如葬儀中止の命が下ったのである。
原因は長安が生前に金銀を隠匿したり、松平忠輝を総大将として幕府の転覆を謀った首謀者である、という理由であった。
長安の陣屋の長持から証拠の大名の連判状が出てきたり、ポルトガルに軍船を依頼した手紙が存在したという。しかしそんな大事な連判状を自宅の長持などに入れておく筈はなく、全くの虚報であることは明白である。あるいは家康の放った冠者の仕業だったとも考えられる。にも関わらず長安の領地や百万石を超す多額の蓄財は全て没収され残った遺児七名は全員処刑されてしまったのである。
生涯にわたって徳川政権に絶大な功績のあった長安に対するあまりに過酷な処分に、世間からは不信感と不可解な点が指摘されてきた。
その原因の一つとして家康の側近の本田正信、正純父子と長安を庇護していた大久保忠隣との政治的な確執に巻き込まれたのではないか、という説がある。
しかし本来は家康の六男松平忠輝の絶大な権力とその岳父である東北の伊達政宗のもつ強力な武士団と、そこに長安の莫大な財力が加われば、未だ脆弱な徳川幕府を転覆させることは十分可能であったと推察される。家康にとってこの三者の存在がいかに脅威であったかが、長安への異常なまでの仕打ちから窺い知ることができよう。
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