曾良を尋ねて (106)           乾佐知子

  ー敦賀から色の浜へ―

 8月9日、曾良は越後国一の宮の気比神宮を参拝した後、芭蕉との打合せ通りの宿泊先である旅籠「出雲屋弥一郎」を訪ねる。所が何か事情があったと見え曾良は隣の大和屋に行って休む。夕方になるとそこから「色の浜」へ行く舟に乗る。舟で出たのが夜の8時頃で着いたのが夜中になっていた、という。
 「色の浜」は敦賀湾に面した小さな集落で享保年(1717)の資料では、家数17軒、人口114人で寺が2つある寒村であった。ここでは塩の生産が盛んで、塩で生計を立てていた。
 敦賀から色の浜まで海路で片道2里半。夜8時に出発した舟が夜中に着くというのは、やや遅過ぎないか。曾良はここでも何処ぞへ寄って、周辺の暮しぶりを調査していたやも知れぬ。
 翌10日は前日止まった本隆寺のすぐ近くにあった開山堂の「日蓮の御影堂」を訪れている。
 午後4時敦賀に帰った曾良は、再び出雲屋弥一郎宅へ行き、芭蕉が来たら渡してくれるように金子「壱両」を預けた。
 金子壱両といえば現在の金額に換算すると約10万円以上の大金である。何故このような大金を預けるのか、と一瞬読者は驚くと思う。私も最初は芭蕉が1泊する金額にしては法外ではないか、と疑問に思った。しかしよく『細道』を読んでみると、この額は妥当であると納得したのである。芭蕉の待遇を良くしてもらう為の曾良の心遣いであろうという研究者もいるが、私は曾良独特の緻密さで計算し、その位は懸かるであろうと判断したからではないかと推測している。
 11日曾良は天屋五郎右衛門宅を訪ねて芭蕉への手紙を預かってもらい、敦賀を発った。
 この人物は敦賀の回船問屋で、舟を調達してくれる事になっていた。また、幸いにもこの天屋は俳人でもあり「玄流」という俳号をもっていた。
 8月14日ようやく芭蕉が敦賀に着いた。福井から、古い友人で俳人の等裁と共に約60キロの道のりを多分2泊位したのではないか。15日の仲秋の名月に合わせてぴたりとこの日に宿に入った。
 実は等裁が一緒に来ることは曾良は知っていただろうと思われる。しかも16日には色の浜に天屋五郎右衛門の用意した立派な舟で贅沢なもてなしまで受けている。〈浪の間や小貝にまじる萩の塵〉

   さらに芭蕉の、
     露通も比みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合(後略)
   と『細道』にあるように、路通が色の浜に迎えに来たことがわかる。当初からここで待ち合わせる約束であったのだろう。
 こうして3人で2、3泊し、舟賃を払い、その上に大垣まで馬を使ったわけだから、やはり曾良の計算通り「壱両」の旅費は充分必要であったろうと推測する。