曾良を尋ねて (124)           乾佐知子
─曾良と吉川惟足─

 曾良が吉川惟足と出会った10代のころ、相次いで養父母を失ったばかりの曾良にとって、惟足をどんなに頼もしく親しく感じたことであろう。当時惟足は40代、親子ほどの年の差があった。
 芭蕉臨終の頃は吉川惟足も重い病の床にあったと推測され、曾良はその看病に当たっていた可能性がある。それゆえ闘病中の師を置いて、芭蕉の元に馳けつけることは、憚られたのであろう。
 さらに疑問をあげてみると、何故か、惟足の死後も長いこと芭蕉の墓参をした様子がない。越後の村上では、松平良兼公の3回忌に合わせて、立ち寄っており、人一倍情に篤い曾良である。惟足の死後すぐにでも馳けつけたい気持ちは強かった筈である。しかし、それが出来なかった何か大きな理由があるのではないか、と考えた私は、曾良の精神の真髄を流れる吉川神道の教えにその根本があるのではないかと推測した。
 この吉川神道の教義については、金森淳子氏の「曾良旅日記を読む」に詳しいので、その一部を要約して記したい。(古来から日本の神々は自然崇拝が基となっている為、他の宗教を否定することがなかった。その為長い間に仏教はじめ道教、陰陽道、その他の要素が加わり、神、本来の姿が見えにくくなっていった。従ってこれ等のものを神道から排除しなければならない。)というのである。
 この日本特有の文化や精神を尊ぶ姿は、幕府からも多くの共鳴者が出た。
 関ヶ原の戦いから数十年たち、すでに武力統治の時代は終わっており、幕府は階級を固定するための新たな手段を模索していた。そんな時、この吉川神道は従来より仏教に従属していた神道に、陰陽五行説や宋学の要素を取り入れて独自の説を主張するものであった。従って幕府にとっては、上下の関係を明確にする儒教の論理と一致したのである。
 惟足はこの説を紀伊藩主徳川頼宣にとき、会津藩主保科正之の推挙によって、徳川家綱に謁し、天和元年(1681)に綱吉によりついに幕府神道方を務めるまでに出世した。
 この惟足より27歳の時に神道伝書を受けていた曾良は、立派に神職としての務めを果たしていた筈である。
 しかし、長く曾良を追究しておられる内海良太氏(「万象」主宰)の研究によれば、惟足の門人は明らかにされていないという。所が、惟足の子である55代從長の門人に長屋正以という人物がおり、この者が曾良と非常に深い関係を持っていることを発見された、と述べている。(岡田耕治著「曾良、長島日記」)
 この件に関してはいずれ内海氏より詳しい説明を受けたいと思っている。
 『奥の細道』の伊勢神宮の遷宮式において、僧形の者は神前に近づくことが出来なかったことを思い出して頂きたい。仏教を排除することが当時の神道であれば、曾良が芭蕉の葬儀に出席出来なかった理由も頷けるのである。