曾良を尋ねて (143)           乾佐知子
─故郷に集う「あぢさゐ忌」─

 曾良には3つの故郷があるといわれており、第1は生地の諏訪、第2は青年期までの10年間を過ごした伊勢長島、そして還暦を過ぎて旅の途中に果てた終焉の地壱岐勝本である。その命日には「さみだれ忌」や「あぢさゐ忌」の別称があり、毎年各々の地で盛大な法要や追悼句座が営まれている。このように古来から何々忌と名付けられている文化人は多数いるが、曾良のように毎年複数地で追悼行事がなされている俳人は、俳聖芭蕉は別格として他にいるだろうか。
 若くして諏訪を後にした曾良には、生地に関する記録があまりない。それに引きかえ伊勢長島にはベースとする行動が多く、生涯に最も深くかかわった土地であったといえよう。芭蕉も「奥の細道」行脚の直後に案内され大智院には3日も滞在している。曾良はこの機会に近住の伊勢松平家の要人に声を掛け歌仙興行を行っており、この史実は長島の歴史文化史上にも画期的な出来事だった。曾良の長島に対する陰の功績は多大なものがあったといえよう。
 平成4年に地元の曾良研究家である岡本耕治氏による「曾良長島日記」が出版されるや近県の曾良愛好家の皆さんによって命日「さみだれ忌」で改めて曾良の遺業を偲んだ。この追悼行事には諏訪の研究家原博一氏や千葉佐倉から「万象」主宰の内海良太氏も参加されていた。内海氏は以前から独自の曾良像を研究されており、曾良はあくまでも神道家であり俳諧師ではない、との説を一貫して主張してこられた。私もようやくその結論に到達することができ、氏の明察には敬服するばかりである。氏は近来も度々大智院を訪れて交流を深めておられるという。
 水鶏啼けゆかりの寺の門川に 良太
 このように後世の多くの人々に親しまれる、人間曾良の魅力とは一体何なのだろうか。生涯を通して他人の為に骨身を削り、自らはひっそりと旅に果てた。日本人が近来見失いがちな、謙虚さや慎み深さを曾良の生き方に見出して人々は惹きつけられるのではなかろうか。
 旧暦5月22日は今日の暦では丁度6月中頃にあたる。然しこの後も曾良は榛名山に生きていたではないか、という御仁もおられよう。私は曾良本人がもしも何処かで生存しており突然知り合いに会ったとしても、河合曾良の命日は5月22日で変わることはないと思う。なぜなら、〝会った〟という人は別の名を持つ別人なのだから。榛名山に現れた老人は修験道を極めんとする神道師であって、最早俳人曾良ではない。岩波庄右衛門正字は幕府巡検使の要人として立派に務めを果たし、壱岐の島で客死した。
 そして俳人河合曾良は筑紫行きに憧れていた師匠芭蕉の意志を継ぎ、見事に西海に渡り安堵して玄界灘に浮かぶ孤島で眠っている。生涯漂泊の日々を送った河合曾良にとって西海の荒波や風の音は子守唄のように心地良いものであろうと信じてやまない。
 今年もまた紫陽花の季節が来た。正願寺や能満寺には他県から多くの献句が送られてくるという。その句は紫陽花の間に飾られているそうで、「あぢさゐ忌」の句座を彩っていることであろう。
〈完〉