曾良を尋ねて(94)       乾佐知子

─ 封人の家と尾花沢鈴木清風 ─

 5月16日 堺田に滞留。大雨。宿和泉庄や、新右衛門兄也。
 これは曾良の日記にある封人の家での記録だが、堺田の庄屋の新右衛門の兄の家に泊まったとある。封人の家とは関守の家で名主をかねた村役人でもあり、実際には街道筋の本陣的な役割をつとめた家である。屋号は和泉屋、茅葺きの田の字型で馬も同じ屋根の下にいる。芭蕉達は玄関奥の座敷に泊まったという。並の旅籠や民家とは比べものにならない位立派なもので「蚤虱」の句は芭蕉独特のフィクションの句であろう、といわれている。
 翌日雨による三日間の旅の遅れを取り戻す為山刀伐峠を越えて尾花沢を目指す。
      尾花沢にて清風と云者をたづぬ。かれは富めるものなれども志いやしからず。
      都にも折々かよひて、さすがに旅の情なさけをも知りたれば、日比とゞめて、
      長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

 涼しさを我宿にしてねまる也
 まゆはきを俤にして紅粉の花

 尾花沢の鈴木清風(1651~1721)は紅花や穀物を商う他に金融業も営む豪商で、屋号は島田屋、名は八右衛門。当時39歳。
 清風は東北にいながら、すでに俳人として撰集をいくつも出しており『おくれ双六』には桃青(芭蕉)の「郭公まねくか麦のむら尾花」が入集されている。

 紅花は染料の他口紅にも加工され、紅一匁金一匁といわれるほど高価なものであった。この花は春の彼岸前後に種を蒔き、半夏生(夏至から11日目)にまずひとつが咲く。すると一斉に開花して土用の入り口頃に満開となる。摘み取りは朝霧を含んでトゲが柔らかいうちに行われ、それが二、三週間続く。(金森敦子著『曾良旅日記を読む』)

 芭蕉達が当家を尋ねたのは旧暦の5月17日で半夏生の直前で、まさに島田屋にとっては一年で一番忙しい時期だったのである。
 清風は遠来の客を喜んで迎えたであろうが、その反面商売にとっては実に最悪の時期だった。しかしそれでも礼をつくして対応してくれる清風に芭蕉は感謝したと思われる。〝志いやしからず〟という言葉にその心情をくみ取ることができる。

 10日間滞在するうちの7日間は近くの養泉寺で過ごすこととなる。この時期であればやむをえない対応であったと思われる。養泉寺は天台宗上野寛永寺の末寺で格式は高く敷地も現在のものより随分広かったという。
 私が訪ねたのは大分前のことだが、寺の右手に一面の稲田と雪を冠した大きな鳥海山が見えて、その素晴らしい眺望に感激したのを覚えている。
 前年の元禄元年に改築されたばかりというこの寺で、芭蕉達が充分休息をとったことは間違いない。そればかりか実はしっかり仕事もしていたのである。この10泊の間に連句の会を通して会った人間が十数人おり、それらの者達と各々の班との情報交換を持ったものと思われる。