曾良を尋ねて 82          乾 佐知子

天麟院と松平忠輝についての一考察 

前稿で触れたように、芭蕉達が九日に瑞巌寺を訪れた際に、円通院の西隣にある天麟院に立寄り、曾良は日記に「不レ残見物ス」と記した。ところが芭蕉はここでの行動はほとんど核心に触れることはなく、
「十一日、瑞巌寺に詣づ。当時三十二世の昔、真壁の平四郎、出家して入唐、帰朝の後開山す。その後に雲居(うんご)禅師の徳化によりて、七堂甍改まりて、金壁荘厳光をかがやかし仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見仏聖の寺はいづくにやと慕はる。」
とたったこれだけの短く素っ気ない文章である。そして翌十二日には〝平泉を志し〟と旅の展開を早めている。これ以上仙台藩にいて動きを悟られては困るからだろう。それ程深く二人はこの瑞巌寺を知りすぎていた。
天麟院は政宗の長女五郎八姫(1594─1661年)のために洞水禅師を開山として創建された。その五郎八姫の夫が松平忠輝であったことは前回も述べた。忠輝の「落し子」かも知れぬ曾良が現れたことは確かに仙台藩にとって緊張を要する事であったろう。しかし実際の問題点は更に別の所にあったと思われる。
忠輝が三十五歳で諏訪藩に配流された時、妻であった五郎八姫は離婚され仙台藩に帰された。その時息子が一人いたのである。
その子は姫が仙台に連れ帰り、天麟院二世となり黄河幽清と名乗っていた。(「麻」117章)
芭蕉達が瑞巌寺を訪れたのは元禄二年(1683年)で、幽清は文禄十一年まで生きていたから当然二人は幽清と会っていると思われる。そこで曾良は六年前の天和三年(年)に諏訪で死亡した忠輝への思いや、天下の情勢を伝えたのであろう。曾良がこの旅の隨行者となった目的はこの対面にあったといっても過言ではない。
忠輝は諏訪高島城に五十七年間も幽閉され九十二歳でここで没した。墓は諏訪市の貞松院にある。戒名は寂林院殿心誉輝窓月仙大居士。そして曾良の墓はすぐ隣の正願寺にある。これは全くの偶然とは思えない。
貞松院には私も七年前に諏訪市の曾良研究家・故原博一氏の奥様に案内して頂き忠輝の墓を参拝させて頂いた。広い敷地の一番奥まった角地に、一般の墓より一段と大きい墓石があった。330年以上経た今も手厚く見守られていることが窺える。
忠輝になぜここまで処分が厳しかったか、というのには理由があった。仙台藩の伊達政宗は元々外交政策に熱心で、当時からポルトガルやイスパニアと活発に貿易をしていた。宣教師も多くいてキリスト教の布教に力をつくしていた。
「麻」編集長の松浦氏によれば「五郎八姫」という名前も「いろは唄」に語源があり、最初の行の一字目と最後の行の一字目と最後の字を三つ合わせると「いゑす」(イエス)になるという。つまり五郎八姫は生まれながらのキリスト教徒であった。そして忠輝もこのキリスト教に親しんでいた。西洋の言葉や医学に精通し、自ら処方した薬以外は絶対口にしない。従って飲み物や食事に毒が入っていればすぐにこれを見破ったという。当時一国の殿が九二歳の長寿を全う出来たのもこれらの知識にたけていたからといえよう。事実弟は七歳で城中で毒殺されている。家康が忠輝を諏訪から出さなかったのは〝彼の身を惜しんだから〟という研究者もいる。
次回も忠輝の話に関連して仙台と諏訪との意外なつながりについて説明してゆきたい。