曾良を尋ねて

─ 伊達騒動の原因 そのⅡ 原田甲斐宗輔の人物像

乾佐知子  OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 いわゆる「伊達騒動」とひと口に言っても、この騒動は実に11年もの長い時の流れの中にさまざまな経過をへて出来た複雑な人間関係と、江戸時代初期という徳川幕藩体制成立まであと一歩という不安定な時代背景があったことを理解していただきたい。
この事件は御家騒動の中でも特殊な例として多くの研究者達がその真相を探るべくさまざまな見解の学説がなされている。他の事件との違いは、単なる相続争いではなく藩を守る為に命がけで挑んだ家臣達の権力争いであり、政治闘争であった。藩内を2つに割って10年もの長い年月をかけたスケールの大きい内紛であったこと、幕切れが劇的であったことから古くから芝居や小説の題材としても世人の注目を集めた。
歌舞伎の演目として今も高い人気を保つ「伽羅(めいぼく)先代萩」は主君への忠義と親子の愛情の板ばさみとなる、乳母の政岡を登場させているが、無論この者は作品の創作上の人物である。
主役の原田甲斐は劇中に仁木弾正として悪玉の張本人として構成されており、そのイメージは長いこと変わることはなかった。
しかし明治に入り、文学博士大槻文彦氏による『伊達騒動実録』なる大著が吉川弘文館から刊行され、この事件の本格的な研究がなされるようになった。
その後数々の研究者達の克明な史実の解明により、この事件の真相と奥の深さが世人の驚きをもって迎えられたのである。
昭和29年から31年にかけて、作家山本周五郎は、この事件を主題とした長編小説を経済新聞に連載し、これをまとめて出版した。『樅ノ木は残った』である。
この小説の出版により従来からの「伊達騒動」に対する価値判断は完全に逆転し、忠臣として原田甲斐を見直し、その人間性は多くの人々の 感動を呼んだのである。
原田甲斐宗輔が正式に国家老として就任するのは、寛文3(1663)年の5月頃とみられており、当時の家老には茂庭周防定元(38歳)がいた。
この茂庭氏の石仏像が〝万治の石仏〟として諏訪社春宮の近くに存在することは本稿で説明したが、この石仏を通して仙台と諏訪との関わりが気になる所である。
原田甲斐宗輔は代々家老職を務める宿老という家柄だ。祖母は茂庭延元の娘で母は秀吉の側室香ノ前の娘である。更に甲斐の長男宗誠(帯刀)は茂庭定元の娘を妻としており、原田と茂庭の両家は深い姻戚関係を保っていた。
甲斐は慶安3年に30歳で評定役に任ぜられ、万治2年と寛文元年にそれぞれ普請総奉行に当たっている。母が政宗の御落胤の亘理宗根と同腹の妹で、宿老家筆頭の家柄に生まれ、生来の育ちの良さから実直で真面目な人物であったと思われる。
甲斐の人物像についての先人の研究者の評は、家老としての能力や才能は強引なものではなく鷹揚で大人しい性格だったのではないかという。
甲斐が「先代萩」の仁木弾正のような悪人ではなく、山本周五郎の「樅ノ木」に記したような理想的な人物でもなかったようだ、と研究家小林清治氏は分析している。
ではなぜこのように鷹揚で実直な彼が最終的に騒動の全ての責任を負い、忍耐に忍耐を重ねた末、結果的に悪臣の汚名を一身に被るという悲劇的な結末を迎えることになったのか。そこには一個人ではどうすることもできない幕府や藩の圧倒的な強さがあった。
家臣に対する大名の圧倒的な優位、そして大名達に対する将軍の決定的な優位が、世界史に類をみない幕藩体制の特質だったといえよう。