曾良を尋ねて (87)  乾佐知子

─ 伊達騒動の原因 そのⅢ 藩主伊達綱村の逼塞 ─

万治元年(1658年)二代藩主忠宗が没した後、19歳の六男綱宗が三代藩主となった。この六男が藩主となった時点ですでに藩内の権力闘争、即ち御家騒動の火種はくすぶり出したと考えられよう。なぜならその後の3年間の政変はめまぐるしいほどの早さを持って起こるのである。
仙台藩62万石の強大な家臣団と共に、一門と呼ばれる大名クラスの親戚が多くいることは拙稿の(84)(85)(86) に於いて詳しく説明したが、これからは幕府との関わりについても徐々に検証してゆきたい。
綱宗が家督となった翌年の2月5日に綱宗の養母で最も頼みとした振姫が53歳で没した。これによって綱宗は藩政の後ろ盾を失うことになりしだいに孤立してゆく。
ところが翌月に待望の第一子亀千代が誕生したことにより藩内の安泰は確保された、と恐らく安堵したことであろう。しかしこのことが逆に己の政治生命を縮める要因になろうとは、綱宗自身考えも及ばなかったろう。
翌万治3年2月に幕府より江戸小石川堀の修復工事の命が下される。この工事は神田川より西へお茶の水、水道橋、小石川橋をへて牛込門土橋までの堀を深く掘り下げて船を通し、その掘り取った土で土手を修築させようというものである。この工事に要する人夫は1万石で100人であるから、62万石だと6200人の大掛かりなものであった。
かくして綱宗は3月に江戸に入り5月に普請初め、その後は連日現場を監督して廻っていた。7月18日いつも通り仕事を終えて帰邸すると、上使の太田摂津守他二人が来て「逼塞せよ」との上意を告げられたのである。綱宗21歳、治世わずか2年間で実際仕事らしいことをしたのはこの3ヶ月だけであった。しかしこのわずかな間に幕府と家老数人の間で綱宗を隠退させようとする相談が進められていたことを本人は全く知らなかった。
実は、これより先の7月9日に一門、家老の14名が連署して綱宗隠居の願書を幕府に提出していたのだ。ところが現在藩に後継者がいなければその藩は取潰しとなってしまう。そこで亀千代という2歳になる男子がいることで、同時に亀千代家督相続の請願も出されていた。
何故突然このような事態が起こったのか。仙台藩の正史『治家記録』には「公、故アリテ御逼塞」とだけ伝えているというが、『徳川実記』には「(前略)綱宗、日頃、酒色にふけり、家士等が諫をも聞入らざるよし(後略)」とあり、日頃から酒色にふけり、乱行のひどさが逼塞の原因であったというのだ。
元来酒好みで派手で我儘な若者が、大藩の当主となった重圧に堪えられず、地元を離れた開放感から大胆で自由な振る舞いに及んだ可能性は充分ある。しかし周囲には多くの側近達がいるわけで、そのような当主であれば尚更気を引き締めさせるべきであるのに、何故それができなかったのか、というところにこの事件の不可解さがある。
もし若い当主がこのような気質を持っていることを以前から充分熟知し、それを利用してあえて重大な失態を起こさせるべく仕組んだ人物がいた、としたらどうだろう。これこそ藩にとって重大な陰謀の火種といえまいか。明くる7月19日の夜。伊達家の家臣4名が闇討ちに近いかたちで刺殺される。

 小説『樅の木は残った』はこの夜のショッキングな事件から始まる。その文中で原田甲斐は「4名を刺殺した者は10名近くいるらしい。しかし〝上意討ちである〟と言っている。つまりこの4人は殿(綱宗公)に放蕩をすすめ、それがもとで御逼塞の大事に至らしめた奸臣だから、というわけだ。しかしそれだけの理由で一度の審問もなく刺殺するということは解せない」と茂庭周防定元の父に書き送っている。__