「晴耕集」1月号 感想                     柚口満  

たばこ屋もいよよ閉店秋深し朝妻力

 この句、いわれてみれば納得の一句である。私の住んでいる商店街のたばこ屋さんも昨年の暮れ静かに店を閉じた。
 喫煙嗜好が大きく変わる中、営業的にも問題が大きく生じたことは想像できる。昔はたばこ屋さんの看板娘などという歌もあったが最近は愛想のいいお婆さんが店を切り盛りしていた。
 秋の深まる中、昵懇のお店が閉まったことに寂しさを募らせた作者、昔はかなりのヘビースモーカーであったが最近はどうなのだろう。

菊人形見得切る袖の褪せはじむ児玉真知子

 菊人形の俳句はその人形の何処かに新鮮なもの、あるいは特異なものを見つけることで勝負はきまる。
 掲句は中七、下五の目付が眼目であろう。歌舞伎役者の見得を切っている場面を菊人形に仕立てているのであるが何故かその袖の辺りから生気を失い始めた、と詠む。私は菊師ではないのでその理由はわからないが力強く手を挙げた袖の高さから水分が枯れだしたのではないか、とも思った。写生の妙を活かした一句。

御詠歌のこゑよくとほる秋遍路飯田眞理子

 俳句を作る人はご存じのように単に遍路というとこれは春の季語、秋の遍路は秋遍路と秋をつける習わしがある。と、いうことはそれぞれの句に使い分けができているかが問われることになる。
 御詠歌とは辞書によると巡礼または仏教信者などがうたう和讃にふしをつけたものとある。巡礼歌ともいうらしい。幼い時にお経とは違う哀愁を帯びたその節回しの御詠歌は強く脳裏に残っている。秋遍路と御詠歌、絶妙の取り合わせだ。

老妻と問はず語りや夜長し中島八起

 この欄の作者のご夫婦はおそらく70、80代の年令に多くが属されているのではと拝察する。そんなお2人のひと駒が詠まれた一句である。
 作者の奥さまは去年少し体調を崩されたと伺っていたがいまは回復され掲句のように秋の夜長を静かに過ごされている。奥様から何も聞かれていないのに作者から語りかけるのもそれだけ労わりの念が増したということ、嬉しい一句である。

鮮やかな黄を消してゆく稲刈機平賀寛子

 昨年この鑑賞枠で農作業を詠んだ句の選評でも書かせていただいたが、このところの機械化の波の凄さには開いた口が塞がらない。
 この句でいえば中七の黄を消してゆく、の措辞が的確だ。昔の稲刈りなら半日、あるいは一日で黄熟した黄色が失せたのだが掲句は瞬時にその色が消えたと詠む。稲刈機の出現はひと昔前の作業を一変させた。見渡す稲田が黒い土に変わるさまを驚きの目で詠んだ一句。

北窓を塞ぎ詰め足す薬箱武井まゆみ

 普段の生活実感を踏まえた一句と言えよう。冬を迎えた日本の家屋は北側の窓に目貼りをしたり本格的に閉ざしたりする。それと同時に日常使用している薬の詰め替えをしたというのが生活臭がでていて面白い。
 使う薬も季節柄風邪薬などを補強したのだろう。話は飛ぶが今流行りのコロナやインフルエンザの市販の薬が市場に十分流通していないと聞く。そんなことも想起させる素材を扱った句柄でもある。 

棄てられて泡立草の田となりぬ大塚禎子

 上五の棄てられて、がなんとも切なく淋しく聞こえてくる。人生の大半を農作業に従事されてきた禎子さんの静かではあるが心からの嘆きではあるまいか。
 米作りの田圃が休耕田になってゆくのは今に始まったことではないが、それにしても猛烈な繁殖力を持ち在来の植物を凌駕する外国発の泡立草をみる作者の心情を思うと複雑な思いに捉われる。

名瀑の音の衰へ山粧ふ小池伴緒

 どこの名瀑であろうか。名の知れた滝も秋の盛りになってその水量が目立って衰えてきて近くで聞くその音は衰えを隠せない。
 それとは対照的に滝を囲む周囲の山は晩秋の黄葉、紅葉に彩られ、それはあたかも頑張って来た名瀑への労わりだったのかもしれない。自然の采配は時に意外な美しさを見せてくれる。

 囃されて柿もぎの竿さらに上ぐ小島正

 柿をもぐ作業、半世紀以上も前の自分の思い出がこの句を詠んで俄に蘇った。大木の柿を捥ぐのは大変だ。青竹の先を割りその切れ目で挟んで枝ごと折ってとるのである。句の作者は柿採りの名人だろう。周囲の人に囃されて長い竹を自在に操る姿が彷彿として浮かんできた。