「晴耕集」6月号 感想                              柚口満

生きるとは老いてゆくこと水温む池内けい吾         

 作者の池内さんとは長い付き合いだ。職場で出会い棚山前主宰の縁で俳句を始めずっと春耕に在籍しているのだから誰よりも氏のことを知っている。
 その最長老が詠んだ一句、上五から中七の表現には大変重い含蓄を覚えるのだ。ここには単に老いることを指しているだけでなく、来し方の自分の人生のゆとりまでもが滲み出ている。季語の「水温む」が動かない。同時に出されている「卒寿とて減らぬ酒量や木の芽和」も余裕のある元気な句である。

啓蟄や失せたるものがひよつこりと倉林美保

 今に始まったことではないが、さっきまで使っていたものを家探しすることが多くなった。何故?と思うのだが皆さんも経験がおありだと思う。そんな時は、ひととき探すのを止めるが大正解、そのうち必ず見つかるというのが私の流儀。
 掲句、啓蟄という季語を持ってきたのが面白い。数日前の失せ物が思わぬ所から出てきたのを苦笑を交じえて安堵する作者、何事も時間が経てば発見できる。但し隠したものは容易には出てこない。

風の隙みつつ蒔きたる花の種窪田明

 花種蒔くは春の季語である。夏から秋にかけての開花を期待して蒔くのである。
 私など無精者がせいぜい鉢の土にぱらぱらと蒔くようでは、この句のような神経のゆきとどいた俳句はつくれない。花の種は軽くて小さい粒状のものが多い。風が吹けば飛ばされてしまう。その辺をよく知る作者は「風の隙みつつ」と表現した。鋭く的を射た写生が功を奏した一句と言えよう。

晴れてまた陰る近江や鳥雲に中川晴美

 私の大好きな近江の一句である。近江といえば琵琶湖、その湖畔での作句かとも思ってみた。
 春半ばの当地は大きな盆地の気候を有し一日をとってみても句にあるように天気の変化が目まぐるしく、それが魅力でもある。
 鳥雲に入る、を略した季語「鳥雲に」。春に北方へと帰る鳥自体にはもちろん趣があるが、それに加えて人間はこの季語に寂莫感や喪失感を持つのではないか。やはり近江が効いている。

きぎす鳴く朝やふたりの卵溶く鈴木志美恵 

  一読して新鮮で爽快感の溢れ出ている句と思った。朝の静寂を縫って届いてくるケーンケーンというきぎすの鳴き声がまず印象的、早春の明けの知らせのその声のなかで作者の食事の準備がはじまる。また、ふたりの卵という言い回しがいい。子供たちは巣立って夫婦だけの朝食、卵の黄の色合いや雉の色の新鮮さが隠れているのも嬉しいことだ。
 芭蕉が語ったという「謂ひおほせて何かある」があるように、句の表現のなかでは言い尽くしては何も残らないという言葉をふと感じた一句であった。

一人乗り一人降り立ち駅のどか武井まゆみ

 この句も省略の妙を存分に生かした句である。句の生まれた場所は語らず、駅は電車の、あるいはバスの駅かも語らない。しかしそんなことは読む人に勝手に想像してもらえば結構です、との姿勢が不思議な句意の広がりを見せる。
 私は辺鄙なローカル電車の無人駅を想像する。一両電車からは一人が乗り、思い出したようにゆっくりと一人が降り立つ。待ち時間が十分あるのだろう。他の乗客も思い思いにホームに出て腰を伸ばす。勝手な鑑賞だが他人は違う感想を持つかも知れない。魅力の幅が増すのは強み、肝心の長閑さだけは存在する。

一筋に津軽を目差し鳥帰る八木岡博江

 前書きに奈良英子先生逝去とある一句。今年の3月3日、春耕の同人奈良英子さんが97年の生涯を閉じられた。上五にあるように人生の後半は俳句一途に生きられた。北へ目指す鳥を見ながら師の故郷へ目指す鳥を詠まれたお別れの哀悼句である。
 私事になるが酒席でたっぷりと聞かして頂いた故郷の昔話は私の宝物になった。

卒業の昨日の今日をもてあまし宇井千恵子 

 中学、高校、そして大学を卒業して次のステップ、つまり進学や社会人になるまでの期間をどう過ごしたかと聞かれても印象に残っていないことに気づく。束の間の旅に出たこともなかった。ましてや卒業の翌日など、この句にあるように持て余すというか、なにも手を付けず無為に過ごしたようだ。人生にはこういうひと駒があっていい。

耕運機トラクターまで農具市小林休魚

 昔の農具市は農村の社の境内などで小物の農具や生活用具などを商うものであったが最近は様相が一変した。春に始まる農作業から秋の収穫の規模を見ればその内容は一目瞭然。掲句のように農機具メーカーが付き添っての大型機械が勢揃いして圧倒する。従来の鍬や鋤や鎌などは隅っこに追いやられた。農業の変遷が激しい。