八十八札所全山冬紅葉川澄祐勝

富士見丘北公園
朴落葉四ッ辻をとぶ真一文字高木良多

「晴耕集・雨読集」十二月号 感想    柚口満

 

月山へ一本道の大花野升本行洋

 この句の作者、升本行洋さんが昨年十一月二十日に逝去された。享年九十二歳だった。最近の春耕会員の皆様はあまりご存じないかもしれないが、氏は皆川盤水前主宰のもとにあって長年事務局長を務められた方で春耕創生期を語るときに忘れてはならない人なのである。
 師のお供をして出羽三山には何回も吟行され、特に月山の登頂には並々ならぬ思い出があったと推察する。八合目から続く弥陀ヶ原、その一本道には美しい花野が広がる。当地の 秋は短い。それを惜しむかに咲く小花の群生は作者の脳裏に何回も去来した光景に違いない。今頃は、かの地で盤水師とありし日のよもやま話に花が咲いていることだろう。
 なお、行洋氏の絶筆となった師との思い出話は一月号にエッセーとして掲載されている。ご一読を。

爆竹を腰に杣入る茸山阿部月山子

   松茸をはじめとするシメジや初茸、ナメコなどの茸は秋の味覚として食卓を楽しませてくれる。
 さて掲句であるが、爆竹を用意しての茸狩りの風景であるところが最近の世相を反映していて興味深い。ご存じのように秋に入ると全国各地に熊や猪、鹿が出没して農作物はもと より人的被害が多発して社会問題になったからだ。作者の住む山形では熊に襲われて死者まで出ている。
   この句もそれらの被害に備えて爆竹の帯を腰に巻いて杣は山に入ったと詠む。それにしても、これからはおちおちと茸狩りに興じることもできなくなったということか。

ふるさとの西瓜や縞もいきいきと朝妻力

   この句の作者のふるさとは新潟の岩室温泉の近くだと記憶しているのだがどうであろうか。久々に帰った故郷の地、真っ先に出てきたのは大きな大きな西瓜であった。「縞もいきいきと」の表現が新鮮だ。もちろん中身の熟した真っ赤な断面も旨そうであったが、それよりも縞模様を激賞していることがこの句の眼目であり、生命線である。
   西瓜というものを通してふるさとの有難さ、産土への感謝といったものが十分に伺われるのである。

風に立つ赤紙仁王秋澄めり飯田眞理子

   東京田端の東覚寺に通称赤紙仁王という二体の金剛力士像 が立っている。道を行く人は全身に赤い紙を貼られた大きな物体にまず驚くことだろう。
 赤紙仁王尊といわれるこの像に自分の悪い所と同じ場所に赤紙を貼ると、仁王さまが身代わりとなってくれるという御利益があるらしい。
   澄み切った青空のもと、像に貼られた無数の赤い紙切れが風にそよぐ。手も足も、そしてお顔も見えないぐらいに貼られた紙は善男善女のささやかな願いの証し、作者も傷めた足の傷の早期快癒を切に願ったのであろう。

直線に来て直角に鬼やんま岡村實

縄張りのあるやに巡る鬼やんま沖山吉和

鬼やんまの飛翔を的確にとらえた二句である。鬼やんまは蜻蛉の仲間では最大種のもので、大きなものは十センチ以上にもなる。大きな緑色の複眼、体の黄色と黒の縞模様も印象的だ。  
岡村さんは、その飛ぶ形態を直線に飛んできて直角に曲がったと詠んでいる。確かにこのトンボは左右にだらだらは飛ばず、悠々と真っ直ぐに飛び急角度に旋回する。
 沖山さんは、どうやら鬼やんまの飛翔には縄張りがあるのではと想像した。獰猛な鬼やんまの飛行速度は時速七十キロともいわれ、あのオオスズメバチをも捕獲するそうだ。そういえばあの飛び方は目下パトロール中といった感がある。 

虫の音の近し胡弓の音の遠し山岸美代子

破調で詠まれていて、それでいて「近し」「遠し」という言葉を印象的に配した佳句である。
 鑑賞として、この胡弓はどこで弾かれているのかはあまり詮索する必要はなさそうだ。要するに、虫の音と胡弓の音の強弱の世界を堪能すべきであろう。直ぐ近くの自分の庭で鳴く虫、そしてその虫のとぎれとぎれにかすかに漂い来るあの哀切帯びる胡弓の音とのコラボレーション。まさしくここにあるのは秋の夜なのである。

対岸へ光の帯や月の川 小林休魚

掲句は単に月として詠んだ句であるがここは名月の夜として鑑賞したい。対岸というからここはかなり大きな川、たとえば利根川辺りを想像してみた。  
登り始めた月の光が川面に映りその帯が対岸へと一直線に伸びたという。滔々と流れる大河に輝く仲秋の名月の帯、なんと贅沢な夜の光景であろう。

乾涸びてなほ跳ぶ構へ鵙の贄坂﨑茂る子

   鵙の贄は鵙の生の営みを示すもので一見残酷さを感じるがまた哀れさも思うのである。掲句の贄は跳ぶ構え、とあるから蛙の類であろうか。その蛙のさまは天に口を開け、その手 足は乾びてはいるもののまるで今にも跳びそうな構えだったという。鵙のために犠牲になった蛙、それを忘れてしまった鵙、動物の世界の生存競争の一齣といってしまえばそれだけ のことであるが身に入む光景である。

戒壇巡り了へ今生の蟬時雨坂下千枝子

   お戒壇めぐりといわれるものは各地のお寺にあるが、最も有名なのは長野の善光寺のそれであろう。真っ暗な回廊を進みご本尊の真下にある錠前に触れると極楽浄土へ導いて頂けるというものだ。何も見えない暗闇から外光を見たときの安堵感は誰しも感じるが作者は耳に入ってきた蟬時雨に感動している。生きとし生ける物の素晴らしさを実感したのだ。

村長の大き神棚八頭島貫和子

   俳句においては「芋」というと里芋をさす。ちなみに薩摩 藷は「藷」である。さて掲句の八頭は親芋と子芋がひとつになった品種で文字通り多くの頭が集まったようなゴツゴツした形もの。この八頭が村長の神棚に鎮座してしている図がこの句、村の人が持ち込んだものかもしれない。豊穣に恵まれ た村の生活が思われる。

まだ温き砂浜に座し月を待つ長井ヒサ子

   仲秋の名月の昇ってくるのを待つ心境を一句にされた。お住まいが今治の方だからこの砂浜は瀬戸内のどこかであろうか。昼間も好い天気に恵まれたのであろう。その余韻が残る 温かい砂浜に座す、との具象的表現ががいい。空が白む月代があらわれ、いよいよ名月が。ささやかな緊張感が心地よい。

黙読のいつか音読良夜かな宮田充子

こちらの句も名月の夜が舞台である。名月の夜に限られた季語が良夜、明るく美しい夜が本意である。
 障子の外に明るい月光を感じながら読書に勤しむ作者、眼目は黙読が音読にいつしか変わったという把握であろう。どのようなものを読まれていたかは推測できないが、心の琴線 に触れる印象的なフレーズがあったのだろう。