「晴耕集・雨読集」5月号 感想 柚口満
実朝忌谷戸の鳶が輪を狭む 伊藤伊那男
作者の鎌倉好きは以前から知られたところである。この度俳人協会賞を受賞され、それを受けての作品依頼が多々あり作句の舞台を鎌倉に求めたときに作られた一句かと勝手に想像した。
源実朝が鶴岡八幡宮の境内で甥の公暁に殺害されたのは早春のこの時期。初の武士による政治を司った鎌倉幕府であるが血塗られた戦の歴史は谷戸の処々にその影を秘めている。谷戸の大空を飛ぶ鳶が徐々に輪を狭める、という措辞が緊張感を醸し出している。
鮟鱇の嘆きの貌に吊さるる松川洋酔
鈴木真砂女に「鮟鱇の吊し切とはいたましや」という句があるが、掲出句も鮟鱇が吊された時に詠まれたものであろう。作者はその貌を「嘆きの貌」と表現してみせた。それはそうだろう。鮟鱇は自分の意志に反して静かな海底から底引きの網で根こそぎ掻きあげられて、そのうえ解体のために大きな鉤に吊されたのだから、嘆いてみたくなるのは当然である。
しかし、鮟鱇の思いとは裏腹に人間は残酷だ。その身だけでなく「鮟鱇の七つ道具」といわれる内臓のすべてまでをも食べ尽くすのであるから。
魞挿して景の定まる鳰の海中川晴美
魞挿す、は早春の季語。魞というのは湖や川などに用いられる定置網漁の一種である。魚が網にかかるように数多くの竹など立て掛け魚を誘う道筋をつけるのが肝心なことである。この漁法はこの句にあるように琵琶湖に多く見られ、雪を置く比良山系を背にした光景は湖の風物詩ともいえよう。そのあたりを中七で、景の定まると的確に描写した。
如月や子の手の覗く乳母車山岸美代子
如月といえば陰暦の2月であるから今でいうと3月ということ、仲春である。
どこかの公園での光景であろうか。若いお母さんが乳母車を引いて赤ちゃんを戸外に連れ出した。吹く風にはまだ冷たさがあり赤ちゃんの顔はフードで隠されていたが、小さな手だけが覗いていた。本格的な春の到来は少し先のことではあるが、なぜかどこかに暖かいものが内包された一句である。
桃の花添へて米寿の棺閉づ石川英子
作者のお姉さまは元春耕の会員で土浦で句会を開催していた頃は毎月1回教室にお邪魔した思い出がある。このたびの訃報の句を拝見して在りし日を思い出した。心からのお悔みを申し上げたい。
88歳の天寿を全うされその出棺の際に庭に咲いていた桃の花をそっと添えた心遣いは、俳句を愛した故人にとって嬉しいものであったに違いない。同時に「初音聞く障子に姉の気配ふと」も出句されている。
囀りや日のまはりくる山の墓我部敬子
鳥の鳴き声で「地鳴き」というのはいわば日常語のことで、一方「囀り」というのは繁殖期における雄の求愛の声である。明るい春の到来を告げる象徴的な季語といえよう。
山のお墓を囀りが囲み、陽春の日がひっそりと、そして穏やかに包み込む。春のおだやかさが静かに詠まれている佳句である。作者はこのたび『衣の歳時記』という好著を出版された。春耕に長年連載されたシリーズの集約でありその労作をお祝いするものである。
小流れに落ちて崩れず紅椿菊地栄子
椿の花は落花の際に花びらが散らず、花全体が落ちるところから落椿といわれる。
作者は偶然にもその赤い椿が小流れに落ちるのを目撃されたのであろう。ひとひらも欠けることなく崩れずに流れ行く椿の存在感がよく出た一句。
もちろん地上に重なり合う落椿の風情も捨てがたい。
航跡のやがて消えゆく春霞木﨑七代
古代から霞はおおく歌に詠まれ霞の中のさまざまな風景を好んでその材料にした。大和(奈良)盆地や山城(京都)盆地に霞が多く発生したことも一因かもしれない。
芭蕉は「春なれや名もなき山の薄霞」と山を詠んだが、掲出句は海の霞を句材にした。
真っ白な大型船の航跡が水平線に向かって進んでゆくのであるが途中で霞と渾然一体となり、やがて淡く消えていったという。朦朧とした春の忬情が漂う。
防人の今は昔や鳥帰る中嶋美貴子
古代、多くは東国から、たとえば筑紫、壱岐、対馬などの辺地の守備、防衛のために防人とよばれる兵士が徴集された。
その昔の歴史を偲んで作られたのがこの句。見たこともない僻地へ向かう防人とこれを見送る親や妻子のことを思う歌は万葉集にも多く見られる。鳥が故郷へ帰るのを見るにつけその思いは切なく哀しい。
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