「晴耕集・雨読集」7月号 感想      柚口満


夜桜へ面影橋をわたりけり池内けい吾 

   この句は面影橋という実在する固有名詞を使ったことにより詩情に溢れた句となった。この橋は東京は西早稲田の神田川に架かる橋で、作者の住まいの近くにある。
   神田川の両岸には桜並木があり桜のシーズンともなると見物客で賑わうのであるが、作者も夜桜を見ようとこの面影橋をわたったという。句は単に橋を渡ったとしか述べていないが、この省略が読む人に大きな想像力を与えていることに気がつくのである。遥かに長い人生を振り返るとき、この夜桜の中でどんな人の面影が脳裏に浮かんだのか聞いてみたい。

花屑の沼面に描く風の道武田禪次 

   今年は100年に一度ともいわれるコロナ禍の襲来で、桜の花どころでなかったなあ、というのが真夏の今に思う感慨である。それだけに折角豊かに咲き誇り散っていった桜に申し訳ない気分もするのである。
 さて落花の傍題には「花、桜吹雪」「飛花」「散る桜」「花の塵」そして掲句の「花屑」などがある。いずれも花の命の短さを、はかなさを表すのであるが、今年の悪条件を考えると尚更の感が強い。
 掲句は沼の面に散り敷く花の屑が風に翻弄される様を詠んだもの。風の意のままに描く花屑の模様は、今年の桜の運命を提示されたようで切ないものがある。

舞殿にト書のごとく花吹雪杉阪大和

 中七の「ト書のごとく」という比喩表現をもってきたことに驚いた。なかなかこういう思い付きの作句はできないものである。
 ト書とは、芝居やドラマの台本、脚本のせりふの間に登場人物の動きや照明や音楽、音響効果等の説明を入れること。この句でいうと舞殿で行われていた舞の最中に「ここで花吹雪を降らせます」というのがト書。
 ところが実際には何の前触れもなく花吹雪が突然的を射たように降り注いだことに作者は感動、まるでト書、のようだと詠んだのである。久々に新鮮な「ごとく俳句」に遭遇した。

鳥帰る苑の木椅子に忘れ杖深川知子

 苑という漢字や杖という漢字から、お年寄りが生活されている施設を想像してみたが如何であろうか。その苑の庭の木の椅子に一本の杖が忘れて置かれていることに気がついた作者。何故ここに杖があり持ち主はどうされたのか等々、気がかりなことが次々と頭をよぎる。
 時あたかも鳥の帰る季節、上空には棹を組んで鳥たちが祖国へ旅立つ。鳥帰る、という季語からは複雑な人間模様も想起されて、心に何かを残してくれた一句である。

新しき肥後守買ふ立夏かな小野寺清人

 肥後守、という名前を聞くと遥か彼方の少年時代を懐かしむ人も多いと思う。肥後守、すなわち小刀(こがたな)のことで刃の部分が鉄製の折りたたみ式の鞘に納まる便利な代物のことだ。
 昔の子供たちはこの小刀を便利に駆使し、鉛筆削りをはじめ木や竹の細工物などものを作る工程を楽しんだものだ。
 それだけに掲句を読むとわれわれ老域に入らんとする者は懐旧の思いが沸々と湧き上がるのを抑えきれない。作者も夏を迎え、今一度肥後守を新調してあの日に戻ろうというのだろう。

新調の印半纏緑摘む市川春枝

 緑摘むは晩春の季語、松の新芽を適当に摘むことでこれを怠ると松が弱ったり、枝ぶりが悪くなるといわれる。
 丹念な作業に当たる庭師の新調の印半纏が眩しく、その鮮やかな紺色が松の緑に映える。

一本を使ひ筍づくしの餉大細正子

 筍は水煮などの処理で一年中食べられるが本当は晩春、初夏に掘り出したものをそのまま食べるのが一番。
 この句も一本立派な筍を駆使して筍尽くしで楽しんだとある。筍ご飯、汁物、煮物、炒め物、さっと茹でた刺身もよい。卓を囲んで一家の筍談義が弾む。

あけすけの樹上に鷺の抱卵す田野倉和世

 あけすけは明けと透けの意味、包み隠しのないということ。鷺は樹の上に巣を作るコロニー(集団営巣地)を形成する。数十羽、数百羽の鷺の親があけすけに抱卵する様は壮観である。あけすけという言葉を用いての営巣状態を的確に表した。

夕風の止めば香の立つリラの花田村富子 

  リラの花といえば札幌の晩春を思い出す。若い頃、春の闌ける頃になると毎年札幌に行く仕事があり、その花の芳香が今でも思い出され「リラ冷え」という言葉も教えてもらった。夕風がはたと途切れた時に、静かに香り立つリラの花が美しく詠まれている。