「晴耕集・雨読集」5月号 感想                柚口満   

口げんかあとの淋しさ鳥帰る生江通子

 口げんか、という意味合いを辞書で引いてみると、口論、ことばで論争すること、口いさかい、などと解説がでてくる。
 掲句にでてくる口げんかは論争といった大仰なものなどでなく親子や夫婦、兄弟などの些細なものであろう。とはいえ、後味は悪いもの、しばらくは心や胸のなかに一抹の淋しさやわだかまりは残るであろう。
 折しも季節は鳥の帰る頃、なおさら虚しさがつのるが、平常心へと戻ろうとする気持の立て直しも感じられる。

三寒のねこ背四温の胸張つて沢ふみ江

 三寒四温、文字通り寒さが三日続くと、そのあと四日間ほど暖かい日に恵まれること、春が近づく予感があり嬉しい季語でもある。
 私が句を読んで共感を覚えたのには理由がある。病を得て入院、そして退院後の体力を付けるために朝夕にウオーキングをしている時のことを思い出したのである。寒い日には寝癖がついた背中を気にして、そして暖かい日には気をよくして胸を大きく張って弱った足腰を鍛えた。
 掲句は三寒四温の季語に人間の具体的な動作を反映させ待春の思いを上手く詠み込んでいる。

一山の目覚めうながす春の滝小野誠一

 上五から一山の、と力強く打ち出しているのでこの山は大きな山が想像される。長い厳冬期に氷を重ねた巨大な滝が春を迎えて少しずつ解け始め今や音を立てて落下するようになった。
 この音が作者にとってはこの大きな山の目覚めを促す音のように聞こえたという。
 春の滝の躍動感とこれに応えようとする山の木々の芽吹き、大きな自然界の動きがよく捉えられている。

回覧板届けて雛の客となり佐藤正子

 雛祭を介して市井のごくありふれた場面を面白く俳句に詠み込んだ一句。
 向こう三軒両隣あたりのお家に回覧板を届けたところ、雛を飾る部屋に招かれたという。弾んだ話は何であったか。ここはやはりお雛様にまつわる思い出話かと想像する。当家に代々伝わる伝統的な雛人形か、あるいはお嫁に来た時の持参ものか、おんな同士ならではの話に花が咲いたのだろう。

児と母に一つの空やしやぼん玉浅野文男

 春の陽気に誘われて母と子がしゃぼん玉で遊ぶ、見ていて思わずこちらも幸せに感じる一齣の光景だ。最近のシャボン玉は昔の石鹼水を溶かしたものでなく、良く膨らむもの、数多の泡がでるものなど多種多彩なものがあり楽しみ方にバリエーションが増した。
 さて掲句、中七の「一つの空や」の把握、描写が見事である。上天に広がる大きな青空はこの母子だけのための舞台、と大胆に設定したことで幸せに遊ぶ母子の姿がクローズアップされることとなった。

犬ふぐりしやがめば色を濃くしたり網倉階子

 ユニークな名で呼ばれる犬ふぐり、初春の野の日溜りにびっしりと瑠璃色の可憐な花を咲かせる様子は見るだけで嬉しい気分になる。
 地に低く咲く犬ふぐり、作者はしゃがむほどにその色が濃く見えた、と写生した。真っ青な青空に似た美しい色への賛辞である。

弁当の沢庵匂ふ昭和かな久保木恒雄

 昭和という時代を回顧するとき人々は何をシンボルとして挙げるだろうか。戦前と戦後ではその対象物は大きく変わるであろう。この句は学校か会社かは定かではないが弁当に入っていた沢庵の存在を挙げている。
 そうそう、学校のストーブのまわりに温めていた弁当のおかずが授業中に匂い出したのも昭和の懐かしい思い出である。

まだ風を知らぬ出窓の風信子佐藤利明

 ヒヤシンス、漢字で風信子(ふうしんし)と書く。花が美しく香りも良く大衆に愛される球根植物である。作者は日当たりのいい出窓でヒヤシンスの鉢植えをして楽しんでいる。
 葉の間からは花茎が伸び百合の花に似た花も咲き出した。室内育ちのこの花にいつ風を当てようかと思案中らしい。風信子という漢字の名を上手に使っている。

片付けを一日延ばしに春炬燵橋本速子

 春の炬燵というしろもの、仕舞う頃合を見計らうのが中々むつかしい。余寒の日もあれば花冷えの日もある。そんなことでついつい一日延ばしになってしまう心情を表した一句である。
   棚山波朗師の句に「春炬燵上げてうろうろしてゐたり」があるが、いままで在ったものが無くなった喪失感が面白く描かれている。