曾良を尋ねて (103) 乾佐知子
ー金沢から山中温泉へ Ⅰ―
「7月27日申の下刻(十六時頃)山中湯泉に着く。
温泉(いでゆ)に浴す。其巧(効)有明(有馬温泉のこと)に次と云。山中や菊はたをらぬ湯の匂
(中略)
曾良は腹を病みて、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立ちて行くに
行き行きてたふれ伏とも萩の原曾良
と書置たり。行くものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、雙鳧(せきふ)のわかれて、雲にまよふがごとし。予も又、
今日よりや書付消さん笠の露
曾良の日記と照らし合わせてみると、確かに7月17日に「予、病気故不隨」とある。その後21日と一笑の追善会のあった22日の時も「予、病気故、末の刻ヨリ行」と書いてあり薬を貰っている。23日も芭蕉は宮の越に遊ぶが曾良は行っていない。
所が24日に金沢を立つ時は総勢に見送られ、小松には餅や酒を持参して竹意という者と北枝が同道して近江屋に宿している。
翌25日には北枝と三人で多田(多太)八幡神社に詣でており、26日は十名による連句の会が催されて夜までかかり、四十四句の歌仙が巻かれている。かなりの強行軍と思えるが曾良はこの日の体調のことには全く触れていない。
27日にも諏訪宮祭に詣でて、途中日吉神社にも寄って神主に持て成されており、これらのことから推測すると、この頃曾良の体調は完全に回復していると思われる。そして、その夜北枝と三人で目指す山中温泉に入るのである。
小松から山中温泉までは六里。前稿で「細道」ではこの途中に那谷寺に立ち寄ったように書かれているが、曾良の日記は8月5日になっている。
ここで三人は実に八泊する。芭蕉は二日後の29日大垣の古参の門人如行に宛てて手紙を書いている。時候の挨拶の後に
(前略)いづれ、そこもとへ立ち越え申すべく候嗒山丈、比筋子、晴香丈、御伝へ下さるべく候。以上。
とある。これら三名の名前に御記憶があると思うが、この旅の出発前の1月から2月に江戸深川で集まった連句の会、大垣チームの面々である。あと一人いた千川は、此筋の弟であるから書くまでもなく、例の大垣メンバーのほぼ全員に旅の経過を報告したといえよう。この旅の途中、4月に杉風に宛てた書簡以外に大垣に出したただ一通の書簡である。
一体これは何を意味しているのか。先にいって触れるが、曾良も8月15日に大垣を出発し伊勢の大智院へ向かう間際にこの四人に感謝と報告の手紙を書いているのだ。どうしてもこの四人には急ぎ連絡しておく必要があったのであろう。嗒山は大垣藩の詰番頭の津田荘兵衛のことで、後の者はいずれもその配下の大垣藩の武士たちである。
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