鑑賞「現代の俳句」(118)                     蟇目良雨

 

どんぐりの昔を拾ひゐたりけり 嶋田麻紀[麻]
「麻」2017年12月号

 団栗の季節は何故か楽しい。それはきっと誰もが団栗と遊んだ記憶があるからだと思う。考えて見れば日本にはそれだけ団栗の生る木が植えられていたからだろう。私が幼少だった戦後の記憶だが、団栗を拾い集めているうちに誰ともなしに「これは食べられる団栗だ」ということで夢中になって食べたこともある。それは椎の木の団栗であったが、懐かしい思い出である。掲句の作者も団栗の昔を懐かしんでいるのだろう。昔が団栗に凝縮されている。

すぐ眠る母を炬燵に預けおく柴田佐知子[空]
「空」2017年12月号

 炬燵に入るとすぐうとうとする母をそのままにして自分は席を離れて他の用事に取り掛かっている。炬燵が見張り役になってお母さんを見てくれている。いずれ来る一億総介護時代には少しの間でも安心に見守ってくれる装置が必要になってくる。電気炬燵はそうした意味で安全なお守り役をしてくれるものになるだろう。炬燵も炭火や炭団を入れた時代には一酸化中毒や火災の危険が付きものであったが、電気炬燵という発明がどれだけ生活の役に立ったかは昔のことを知らないと実感できないだろう。

愛日の影うすうすと竹生島藤本美和子[泉]
「泉」2018年1月号

 大辞林に次のようにある。〔左氏伝 文公七年注「冬日可レ愛、夏日可レ畏」〕とあり、愛日は冬の日の、畏日(いじつ)は夏の日の光。掲句の句意は冬の日を集めて竹生島はうすうすと影を見せている。かすかな影であるが愛おしんで見てみようと言うこと。琵琶湖の中に唯一ある神の島なれば尚更のことその影が愛おしい。
 愛日には別の意味もある。〔法言 孝至「孝子愛レ日」〕 日時を惜しむこと。また、日時を惜しんで父母に孝養を尽くすこと。参考までに。

ふくろふの首のぐるりと神の留守徳田千鶴子[馬醉木]
「馬醉木」2018年1月号

 ふくろうの首が360度回転することは知られている。目が正面に付いているので後ろまでよく見えるようにと進化の過程で神が与えたもの。この当たり前の仕種も「神の留守」の季語を得たことにより俄然面白くなってきた。神様の居ぬ間に首をぐるりと回したと思わせる遊び心がにじみ出した。

水の面の貌もわが顔素十の忌 橋本榮冶[馬醉木]
(同)

 水面に映っている我が顔も私の顔と言って構わないと言うのが句意。水面に影が違わずに映ると言うことは秋の水が澄みに澄んでいて風などで水面が揺れず鏡のようになった状態が想像できる。まさに水面に正しく我が顔が写生されている。虚子の客観写生を信奉し少しも曲げなかった高野素十に対する讃歌と言えるのではないか。素十と秋櫻子の間に「自然の真と文芸上の真」という俳句論争が85年前にあったが、この論争は勝敗を付けるべきでなく、現在ではどちらも大切と考えられている。掲句はそんな論争を思い出させてくれた。

念仏に頼る暮しやちやんちやんこ野中亮介[馬醉木]
(同)

 素直な作品。信心深い人たちの集まる町や村が想像される。そこでは念仏を唱えることで日々を安寧に過ごす人々がいる。ちゃんちゃんこが地縁の強い結びつきを暗示しているのではないだろうか。

夕方の口がさびしきちやんちやんこ渡辺純枝[濃美]
「俳句四季」2018年2月号

 「口がさびしき」を「何か口に入れるものが欲しい」と鑑賞したが、夕刻に熱燗が欲しくなる男の哀歓のようでもあり、ちゃんちゃんこが庶民的で取り合わせにぴったりの景色と感心。同時作〈日照りつつあはうみは雨比良は雪〉も淡海の複雑な気象を言い得て見事。

紙懐炉などを恃みの古戦場 辻恵美子[栴檀]
「栴檀」2018年2月号
 現代と過去を結び付けて俳諧味のある句に仕上がった。紙懐炉を体に忍ばせて古戦場めぐりをしている図であるが、古戦場の雑兵たちにも紙懐炉を与えてやりたいと願った作者の思いがどこかにあるように思えた。

林中に朝日の匂ふ薄氷 栗原憲司[蘭]
「俳句界」2018年2月号

 林中に射す朝日が匂うようだと言っている。朝日が差し込んで林中が匂いだしたのだろうが、その原因は薄氷にあると作者は言っている。厳しい冬を乗り越えた春先の出来事としておおいに納得できるものがある。薄氷だから納得できるのであろう。

(順不同・筆者住所 〒112-0001 東京都文京区白山2-1-13)