コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(74)幸せな駈落ち俳女、有井諸九尼(上)
不義密通はご法度の江戸時代、武士出身の俳諧師、有井湖白と駈落ちした築後国唐島(現久留米市)の庄屋の内儀、なみ、時に29歳について記す。
名主、永松八郎右衛門の五女に生れたなみは、豊かな教養を身に付け、10代半ばで父の従兄弟の庄屋、永松万右衛門に嫁ぎ、自らも俳句を詠む環境にあった。駈落ちした二人は俳門の知己、額田風之を頼り京都に逃れる。芭蕉の門下、志太野坡の弟子の湖白は、なみの一回り歳上で医業との二足の草鞋だったが、駈落ちを機に俳諧に専念、師匠の13回忌を取り仕切った後、湖白庵浮風と改号。
なみも浮風の指導よろしきを得て腕を上げ、浪女(波女)と号する俳人に。浮風が宝暦6年(1756)、西国行脚に旅立つに際して詠む。
残り雪草になる迄見て立ぬ 浮風
これを受けて、なみも
待日数うれしや暮て郭公(ほととぎす)雎鳩
と相聞の句を交す。
返句の号、雎鳩(しょきゅう)を、安保博史群馬県立女子大教授の『「秋かぜの記」という標題について』(『標題文芸第2号』)から引く。
〈 『詩経』の「関関タル雎鳩ハ河ノ洲ニ在リ窈宨タル淑女は君ノ好逑」による。雎鳩は(鷹の仲間の)「鶚(みさご)」の異名であり、古来、雌雄の情愛のこまやかな鳥とされ…淑徳ある女性のたとえにも用いられた…〉
ほどなく雎鳩と同音の「諸九」に改めるが、〈 出会いの事情はどうあれ、この俳号そのままに、諸九は浮風の良き妻として穏やかで愛情溢れた家庭生活を送った。〉(同論文)が、浮風は宝暦十二年四月、四天王寺に芭蕉と野坡の墓を建立、記念集『朱白集』を編んだ1ヶ月後の5月、急逝。享年61歳。
残されたなみは、浮風の百ヶ日の忌に剃髪、諸九尼となり、〈 百ヶ日もとどりをはらひて 〉の前書を付け、次の句を詠む。
掃捨てみれば芥や秋の霜
追善集『その行脚』の編集に力を注いだ後、明和3年(1766)には初の歳旦帳を板行、女宗匠を目指して、歩を踏み出す。(続く)
(75)幸せな駈落ち俳女、諸九尼(下)
48歳で夫、有井浮風(湖白)と死別、剃髪して京都岡崎に湖白庵を結んだ諸九尼は、時宗の僧で蕉風俳諧の復興に尽くした俳人、五升庵蝶夢らと交流、句作に励む。10年を経て58歳になった諸九尼は、只言(しげん)法師と老僕を伴い、芭蕉の「奥の細道」を辿らんと明和8年(1771)3月、京を旅立つ。
一行は石山寺を詣でて東海道を下る。江戸で20日余り滞在、谷口田女らと交流した後、鹿島を経て6月中旬に仙台に入った途端、病に臥せる。幸い大事には至らず松島、白河、那須、日光、桐生、善光寺、諏訪湖、飯田、妻籠…と辿り、美濃路を通って石山寺に帰参報告をして京都に戻った。
諸九尼は帰京後、4ヶ月かけた全行程550里(約2150キロ)の奥羽行脚の記録を纏め上げる。冒頭部分を「近代デジタルライブラリー、田中紫江校註本」より引く。
〈 奥のほそ道といふ文を、讀初しより、何とおもひわく心はなけれど、たゞその跡のなつかしくて年々の春ごとに、霞と共にとは思へど、年老し尼の身なれば、遙なる道のほども覺束なく、または關もりの御ゆるしもいかがと、この年月を、いたずらに過しけるに、ことしの春は、さる道祖神の憐み給ふにやはからずも、只言ほうにし誘はれ參らせて、逢坂の關のあなたに、こえ行く事とはなりぬ、都の空はいふも更なり、住なれし草の戸も、亦いつかはと思ふ、名殘の露を置そふここちす。〉そして一句。
山ぶきや名ごりは口にいはねども
名文である。諸九尼は翌明和9年(1772)、紀行文と行脚途中で出会った俳人らの俳句323句と合わせ『秋かぜの記』上巻(俳諧紀行)・下巻(俳諧撰集)の2巻を板行。その後も九州、中国…と俳諧行脚を続け、夫、浮風の生まれ故郷、直方(現福岡県直方市)に居を移した湖白庵で養女の慈法に看取られて逝去。享年68歳。最後に白河の関で詠み、紀行のタイトルになった一句。
いつになくほつれし笠やあきの風 諸九尼
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