古典に学ぶ㊱ 『伊勢物語』のおもしろさを読む(24)
  ─ 東国章段に続く十六段に登場する─紀有常

                                                実川惠子  

山椒の実

山椒の実

これまで読んできた昔男の東国章段は、第十五段でやや唐突に途切れた形になっている。
続く第十六段は、明らかに都での話で、その書き出しは次のように始まる。

むかし、紀の有常といふ人ありけり。三代のみかどに仕うまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしく、あてなることを好みて、こと人にもにず。貧しく経ても、なほ、むかしよかりし時の心ながら、世の常のこともしらず。

突然、「紀の有常といふ人」の紹介から始まる。この人は三代の帝に仕え、引き立てられて羽振りが良かったが、その後は御代替わりとともに時勢が移って、落ちぶれてしまった。ところが、有常は、心が清らかで風流韻事を好み、他の人とは異なっていた。貧しく生活が困窮しても、依然として昔良かった頃の心のままで、世間並みに官職を得ようとし
て野心を持つことなどはせず、鷹揚に構えていた。じつに、浮世離れした風流人というべき人物であった。
じつは、この「紀有常」は、昔男の妻の父親であり、有常の2人の姉妹は共に入内しており、姉の種子は仁明天皇の更衣として常親王を産み、妹の静子は文徳天皇の更衣となり第一皇子の惟喬親王を産んでいる。それで、有常は仁明・文徳朝においてはとても羽振りがよかったようである。「三代のみかど」とは、古くは、淳和・仁明・文徳の三代とさ
れるが、史実における有常の官位の変遷に照らせば、仁明・文徳・清和の三代と考えるのが合っている。
それはともかく、生活が苦しくなってもその情況を打開する努力もせず、豊かだったころのままの気持ちで風流にふける有常であるので、ますます窮迫してくる。これでは同居していた妻はたまらない。とうとう夫に愛想を尽かすこととなる。

   年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床はなれて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へゆくを、男、まことにむつまじきことこそなかりけれ、いまはとゆくを、いとあはれと思ひけれど、貧しければするわざもなかりけり。

「やうやう床はなれて」とは、次第に夫婦の営みがなくなっての意で、齢とともに夫婦仲が疎くなっていったわけである。そこで、夫婦関係を解消することにした。今でいう熟年離婚である。しかし、妻は出家を決意し、姉が先に出家して暮らしている所に身を寄せることにした。高齢のため再婚の望みは少ないと判断してのことだろうか。出家の道を選んだのは有常への愛情ゆえのことなのだろうか。
妻に出家したいと言われれば、有常としても強く引き留めることはできず、また、これまで妻にさんざん苦労をかけてきたことを思えば、許さないわけにはいかなかったのだろう。「まことにむつまじきことこそなかりけれ」とは、「ほんとうに心から仲よくしたことはなかったけれども」(新編全集)と訳されているが、むしろ、「本当に誠実に妻を愛し、大事にしてきたわけではなかったが」とする方がよさそうである。つまり、有常は色好みで多くの女性と関係を持ち、妻を悩ませ、困らせてきた。それでも、長年連れ添ってきた妻と別れるとなると、「いとあはれ」と有常は思うのである。しみじみと愛しくも、また申し訳なくも思ったのであろう。せめて別れに臨んで何か贈り物でもしたいと思ったが、
何もしてやれない。そこで有常は一計をめぐらすのであった。