古典に学ぶ㊻ 『伊勢物語』のおもしろさを読む(34)
    ─ 紫式部が愛好した『伊勢物語』と歌の力 ─               実川恵子

 九段の語りが「舟こぞりて泣きにけり」と閉じられるように、昔男の歌は、男たちの固く閉じられた孤独をとかし、涙を誘う。彼らの思う人々は、みなおのおの異なる人である。しかしその歌の声に、共に涙を流すことによって連帯が生まれ、それを力としつつ、あらたな境界を越えていくのである。

 昔男にとってこの旅は、みずから選んだ流離であり、みずから選んだ試練であった。あるいはそれは、歌うことの未熟さによる敗北が招いた、失意の旅であったのかも知れない。他者との交感が実践されない時、心は閉じ、歌も閉じてしまう。しかし、いまやこの男は「ありやなしや」という、素朴でありながら、それゆえにこそ普遍的な、人への問いかけを試みるまでになったのだと思われる。そしてその問いかける歌の声こそが、その場の人々の深い共感を誘発させることになったのである。

 「問う」ことが、「応じること」を導くのである。それが、他者との伝達や交感の、あるいは心の通ったコミュニケーションの始まりなのである。さらに言えば、そのときにこそ、「歌」という様式が重要となってくるのである。仮に、その問いかけの内容がいかにありきたりであろうと、それはいかほども問題ではないのである。歌によって問いかける。歌によって、それに応じる。その応答の機微を演出し、そのなめらかな交流を生み出す器としてのあり方、それ自体が、「歌の力」というものなのである。問いかけというアクションこそが、コミュニケーションの第一歩であるということ、九段の男にとっての流離の旅とは、そのことに気づく旅だったのではないだろうか。

 『伊勢物語』の七・八・九の三章段は、いわゆる「東下り」章段と称される。主人公である昔男が都を離れ、東国へ向かう途次において、折々に歌を詠みあげる章段群であるが、なかでも華麗な和歌技法を凝らした「唐衣」の歌を含み、さらには昔男の「都鳥」の歌に、その場の一同が涙するという第九段は、この物語の全編に照らしても、ことに味わい深い名章段であるといえよう。なぜならこの章段は、『伊勢物語』の発しているいくつかの主題的な問いかけに対して、よく応じているのであり、さらには、それらをよく内在化することによって、この物語を読むわれわれを、今も新たな思索へと導いていると思われるからである。

 では、『伊勢物語』が発している、主題的な問いかけとは何であろうか。それには多くの要素が考えられようが、おそらくその中でも最も重要なものの一つに、「人が歌を詠みあげること」に対する、真摯で根本的な意味追究というものがあると思われる。人はなぜ歌を詠むのか、あるいは、なぜ人は歌という表現手段を必要としたのだろうか。それはまた、歌という非日常言語による人と人との交感の方法に対する根源的な考察なのであり、同時に、そうしたコミュニケーションの可能性に賭けるひとびとへの共感と関心に貫かれた、持続的な営為なのである。

 確かに「歌」なるものは、私たちの生活から遠ざかって久しい。しかし、他者との交感を導くものとしての「歌」の在り方は、今もなお、私たちの心に息づいているのではないだろうか。それこそ「言葉の力」「文学の力」と言い換えてもよいと思う。

 これで『伊勢物語』は、ひとまず終え、次号から清少納言の『枕草子』世界に分け入ってみることにしたい。