自由時間 (46) キリシタン大名・高山右近  山﨑赤秋

 去る2月7日、大阪城ホールに一万人を集め、高山右近の列福式が行われた。教皇庁列聖省長官アンジェロ・アマート枢機卿を教皇代理として迎え、日本の司教団、駐日教皇大使(大司教)、右近ゆかりのフィリピン・マニラの枢機卿をはじめとする各国の司教たちが列席した。
 カトリック系の学校の生徒や信徒からなる大合唱団とオーケストラがミサを荘厳に彩るなか、岡田武夫・東京大司教が教皇代理アマート枢機卿に、高山右近の列福を願い出、次いで列福申請代理人が高山右近のキリスト者としての生涯を紹介した。
 アマート枢機卿はそれを受け、高山右近を福者として宣言する教皇フランシスコの書簡を厳かに読み上げた。これと共に、十字架を手に天を仰ぐ高山右近の肖像画が除幕された。
 その翌日、教皇フランシスコは、バチカンでの一般謁見の席で、高山右近の列福について触れ、彼を「信仰における剛毅と、慈愛における献身の感嘆すべき模範」として称えた。
 福者というのは、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号で、それを受けることを列福という。
 二段階の審査を経て選考される。まず、管区大司教により生前の功績や残された著書が調査される。その申請を受けて教皇庁列聖省で調査が行われ、最終的にローマ教皇によって列福宣言がなされる。
 高山右近の場合は、1949年から準備を始め、没後四百年にあたる2015年に約六百頁に及ぶ申請書を列聖省に提出、審査を経て翌年1月21日に教皇が承認、晴れて列聖されることになったのである。
 これで、日本の福者は三百九十四人となった。(ほかにワンランク上の聖人が四十二人いる。日本の聖人・福者はすべて殉教者である)
 高山右近は、1553年、現在の大阪府豊能郡豊能町高山で国人領主の嫡男として生まれた。幼少のころ、奈良県宇陀市榛原にあった沢城に移り、十歳ごろに家族とともに洗礼を受ける。洗礼名は「ジュスト(正義の人)」。
 1568年、摂津三守護の一人である和田惟政に父子で仕えることになり、主君の高槻城の近くの芥川山城へ転ずる。
 このあと、権謀術策うずまく戦国時代らしくいろいろなことがあって、高山友照(父)が高槻城主となる。その後まもなく、家督を譲られて、1573年、二十二歳のときに右近が城主となる。右近はキリスト教の普及に努め、十字架や教会を次々と建立した。領民二万五千人のうち、一万八千人がキリシタンになったという。
 1578年、摂津国主・荒木村重が信長に謀叛を起こしてはじまった有岡城の戦いでも、信長との間でいろいろあったが、結局、信長の信頼を勝ちとり、二万石から四万石に加増される。
 1585年、秀吉によって、右近は領地を高槻から明石(六万石)へと移される。そして、二年後のバテレン追放令。右近は秀吉から棄教を迫られるが、信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選ぶ。三十五歳。その後、小西行長や前田利家の庇護を受け、小豆島や金沢で過ごす。
 1614年、家康によりキリシタン国外追放令が出されると、右近は家族とともにマニラに渡るが、四十日目に病没。六十三歳。
 伏見に月桂冠という酒造会社がある。その本社は、坂本龍馬が殺されそうになった寺田屋から歩いて四、五分のところにある。その敷地内に、高山右近ゆかりのイエズス会伏見教会への小道がそのまま残っていることが、一昨年に確認された。教会の跡地は幼稚園になっており、その塀で道は途切れているが、この道を福者ジュスト右近が足しげく通ったと思うと感慨深い