子規の四季(76)  病苦を超えての新年         池内けい吾

 初暦今年は遅き初卯かな     子規
 初夢に尾のある者を見たりけり
 明治33年(1900)は子年。子規は病苦を超えて、根岸子規庵で新年を迎えることができた。その喜びを綴った随筆が「新年雑記」 である。

○復(また)新年を迎へた。うれしい。紙鳶(たこ)をあげて喜ぶ男の子、
善き衣著て羽子板かゝへて喜ぶ女の子、年玉の貰ひをあてにする女髪結、雑煮が好きで福引が好きでカルタが好きでカルタよりもカルタの時に貰ふお鮓や蜜柑が好きだといふお鍋お三、これ等の人を外にして新年が嬉しいといふのは大方自分のやうな病人ばかりだらう。自分はをとゞしの新年を迎へた時に非常に愉快でたまらなかつた、それは前年の大患を斬り抜けてとにかく次の年を迎へたといふ事が愉快でたまらなかつたのである。併しそれと同時に未来を考へた、それは来年の正月を迎へられるかどうかといふ事なので、これは自分に取つては容易ならぬ問題である。

 この数年、来年の正月を迎えられるかどうかが子規にとっての最大の難問であった。それだけに新年を迎えた嬉しさは、
人一倍のものがあるのだ。その嬉しさが尽きぬ間に、「来年の正月は」という次の大問題が首をもたげて来るのである。

○役に立たぬつまらぬ事を考へて延喜(えんぎ)でも無いからみそぎをして汚れをはらふてしまはうと思ふて居ると、箱の底から、前年台湾土産に貰ふた赤い紙が一束ね出て来た。
紙は幅三寸竪六寸位で支那人の名刺にするのださうだが、それを見ると、ふと支那の家に貼つてある赤紙の事を思ひ出して、その紙へ、めでたい縁喜の善い慾ばつたやうな言葉を選んで書きつけた。

 赤い紙は、子規の松山中学以来の親友で、高砂族の言語研究のために台北へ赴いていた小川尚義の台湾土産であろう。
まずその紙に書いた「立春大吉」を柱に掛けた菅笠に貼らせた。ついで「弁財天女」「歳徳神」「福如東海」「鶴亀松竹」「寿如南山」を左の鴨居に、右の鴨居には「卯歳男」「大願成就」「銭殞如雨」「百事如意」「吉祥天」「南無三宝」を貼らせた。子規は、これで福が来ぬなら福の神が悪いのだ、と思った。

○それでもまだ福が来さうに無いので、更に福寿草を買つた。蕾が三つばかり横平たい鉢に植ゑてあるがまだ咲き初めもせぬ。これが一輪咲いたら例の写生をやらうと思ふて其咲くのを待つて居た。絵の具は不折がくれた泥絵の具があるから其使ひ初めもしたいと考へたのだ。

 ガラス越に日のあたりけり福寿草
 病室の暖炉の側や福寿草


○去年の正月と今年の正月と自分に格別に違ふた事も無いが、少し違ふたのは、からだの余計に弱つたと思ふ事と、元日の蜜柑の喰ひやうが少かつた事と、年賀のはがきが意外に沢山来た事と、病室の南側をガラス障子にした事と、位である。ガラス障子にしたのは寒気を防ぐためが第一で、第二には居ながら外の景色を見るためであった。果してあたゝかい。果して見える。

 庭の木々や草花、置いてある鳥籠のなかの鳥が餌をついばむ姿も、飛んでくる野鳥の生態もよく見える。向かいの屋根も、上野の森もよく見えた。雪景色をつくづくと眺めることもできた。さらに予想していなかったガラス障子の利点は、日光浴ができることだった。六畳の病室にさしこむ昼の日ざしは病気を忘れさせるほど暖かく、寒暖計は九十度(華氏)近くまで上がり、福寿草の蕾は一点の黄を帯びてきた。

○外出するのに人力車に乗つては腰が痛いばかりで無く冬は寒くて困るから、何か善い乗物はあるまいかと考へた。駕籠では外が見えないし、馬車や牛車では田甫の小道を行く事が出来ぬ。いつそ膝行車をこしらえてはどうだといふ人もあつたが、こいつは箱根権現の霊験でもあつて初花といふ美人が曳いてくれるのなら別だが、三尺の棒を櫂にして自ら漕いで行くのは余り面白くも無いから先づ願ひさげとして、一つ善い物を工夫をした。それは板でも網代でも七島でも何でも善いからそれで駕籠のやうな者をこしらえて、そしてぐるりにガラス窓をつけて置く、もつとも中の広さは足を伸べられる位、まさかの時は横に寐られる位にする、肱もたせもこしらえる、勿論手炉や灯炉などは入れられる、鉄瓶はたぎつて居る、側に茶や菓子や果物が備へてある、といふやうな具合になつて居る。

 子規は、もし来年まで無事でいられたら、こんな乗物で郊外や景色のよいところへ自由に出かけたいと夢想する。さらに次の年まで永らえたなら、底にバネのあるベッドを備え、暖炉や奇麗なカーテンをつけよう。さらに次の次の年まで生きたなら、庵の門前までレールを敷いて、特別列車で日本中どこへでも行けるようにしよう。もし、さらにもう1年生きられたら………………子規の夢想は果てしなく広がる。

こゝ迄書いて来ると押込の中で角のある笑ひ声が聞えた。はてなと思ふて考へて見ると、先日不折が、大津画の鬼が奉加帳腰にさげて自転車に乗つて居る処を画いてくれたのがある。屹度(きっと) あの鬼が笑つたのであらう。

 随筆「新年雑記」は、こんな落ちで締めくくられている。
この一文は、明治33年1月10日発行の「ホトトギス」第三巻第四号に掲載された。
 この年の元日に来庵の礼者は、福田把栗、松瀬青々、坂本四方太、高浜虚子、下村牛伴、松下紫人、木村芳雨、松村鬼史、青木月斗ら。内藤鳴雪も来庵したが、ちょうど子規は陸羯南宅へ年礼に出かけていて、会うことができなかった。

蓬莱や襖を開く病の間
梅いけて礼者ことわる病かな
病牀を囲む礼者や五六人
長病の今年も参る雑煮かな