曾良を尋ねて83                    乾佐知子

仙台藩と諏訪との関わりに関する一考察

前稿で述べたように、忠輝と五郎八姫を通して仙台と諏訪が密接につながっていたことは理解いただけたと思うが、今回は更に曾良以外に芭蕉とも関わりがあることについてふれておきたい。
「麻」編集長の松浦敬親氏の「芭蕉革命」より一部を抜粋して話を進めたい。

曾良の日記に「雪居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。道心者住ス」とある。
寧一山は鎌倉時代の後期に「元」の使者として来日した臨済宗の高僧である。この寧一山の開山とする寺が、下諏訪の春宮のすぐ近くにある慈雲寺である。しかも式年遷宮の御柱大祭では下社(春宮、秋宮)の里曳きの長持行列に、忠輝の筆になる長持も出る。その長持には諏訪大社の紋である梶の葉の紋が二本の旗で千木の形に竿を組んで掛けられる。つまり×の形の木で即ちトマス十字(ク ルス) である。だとすれば忠輝の長男である黄河幽清を守るために松島に忠輝ゆかりの人々が移り住んだとしても不思議はなく、曾良の日記にある道心者とはその一人であろうと思われる。
「奥の細道」の十一日に二人は瑞厳寺に詣でたことになっているが、その日の文中で「その後に雲居禅師(うんごぜんじ) の徳化によりて」と芭蕉も触れている。
この雲居禅師の父親の小浜左京は土佐キリシタン大名の一条兼定に仕えて家老をしていた。しかし長宗我部元親と戦って敗れ、伊予の宇和島に逃れて沖にある戸島で没した。
芭蕉の母親がこの宇和島出身であることは知られており、その両親、祖父母もその信仰集団にいたものと思われる。(麻118章)
芭蕉がこの禅師に特別な思いを持っていたことも納得が出来る。これらのことを踏まえてみると芭蕉も曾良もキリスト教にかなり関心が深かったものと思われる。
その他にも仙台と諏訪との関係を窺わせるものとして「万治の石仏」がある。これは春宮の近くの田んぼの奥の山裾にでんと構えた大きな石仏である。
私もこの石仏は以前原氏の奥様に案内されて拝見したが、実に素朴な墓石であった。
この石仏は作仏聖(さぶつひじり)の但唱(たんしょう)の弟子達が造ったものだが、これと同じ首をした鼻太の石仏が仙台城の本丸を築き、城下の街を固めた茂庭綱元の墓石像として仙台の洞泉院にあるという。
このように諏訪と松島は思わぬ形でつながっているのだが、なんといっても驚いたことが他にもあった。
五郎八姫の霊屋の左前に針樅(はりもみ)が植えられていることだ。伊達家四代藩主の綱村(1659〜1719)がこの霊屋を建てた時に植えたものだという。
実は諏訪の御柱祭には樅の木を使うのである。周知のように、諏訪大社の御神体は守屋山という山であり、その山から切り出された巨木は御神木として古代信仰から「命の木」として崇められて来た。
今年は申年で七年毎の式年遷宮に当っており御柱祭にはこの巨木を引かれた方もいられると思うが、春宮の御神木は杉で、秋宮は一位の木だという。
それにしても樅の木はクリスマスツリーとして西欧ではキリストの誕生日に飾るものである。その樅の木が諏訪大社の御神木であり五郎八姫の霊屋に植えられているという。
これらは一見何のつながりもないかに見える事柄だが、この霊屋に木を植えた四代藩主の綱村は万治三(1660)年二歳で家督を相続した亀千代であった。この幼君を守る為に仙台藩は前代未聞の御家騒動へと発展してゆくのである。