曾良を尋ねて (125)           乾佐知子
─諏訪帰郷と芭蕉墓参について─

  元禄15年秋、54歳になった曾良は深川を発って信州更科に向かった。月見の時期でかつて芭蕉がたどった足跡を偲んで善光寺に詣でた後、姥捨山に登りその足で故郷上諏訪に立ち寄った。まさにこの旅は「故郷訪問」の旅でもあり「師芭蕉追善」の旅でもあった。
 上諏訪は曾良が幼少から20歳頃に長島へ旅立つまで過ごした思い出深い土地である。生家の高野家や生後間もなく引き取られた母の里である河西家、あるいは養子として12歳まで育てられた岩波家はいずれも近所にあるが、曾良はこの3ヶ所のどこを「故郷」と思っていたのであろうか。
 ちなみに10年前、私がこの連載を初めるにあたり当時の上諏訪の宿場街道の様子を詳細に調べた所、驚いたことに生家高野家は、河西家とは1軒の家を間に挟んだ隣同士なのだ。しかも生後間もない赤子は母の里に戻されて屋敷の奥深くで幼児期を過ごしている。名は高野与左衛門というが、河西家の家系図に残っているのは何故か。曾良のこの出生にまつわる一連の不可解さが、彼の生涯に謎として数多く現れてくるのである。
 その曾良を迎えた親戚縁者が正願寺に集まり、当夜は見事な月見の宴を催したことだろう。
ゑり割りて古き住家の月見かな
 本堂正面左側に堂々の句碑が立つ。現在はその後方に平成21年に落成した曾良像が空を見上げて立っている。
 諏訪で幾日か過したであろう曾良は、木曾路を通り美濃に出てひたすら大津を目指した。大津では芭蕉が生前「猿蓑」の選集を行っていた「無名庵」を訪れて当時を偲んでおり、数々の感慨にひたったことと思われる。
 大津で一夜を過した後は、いよいよ義仲寺に向かった。長いこと念願であった芭蕉の墓参である。恐らく万感胸に迫る思いがあったであろう。
拝み伏してくれなゐしぼる汗拭い
 しかしこの年は、芭蕉が死亡してすでに7年が経過しており、その間几帳面な曾良が1回も墓参をしていなかったとは考えにくい。恐らく正式な記録には残っていないが、その間の忌日にもそっと訪れていたのではないか、と考えている。
 墓参をすませた曾良はその足で、近江の俳人と旧交をあたため粟津に立寄って数日を過ごしている。その後は関ヶ原を通って大垣に行き、ここでも大垣の俳人宅を訪ね歩いて数日間滞在した様である。勿論この旅は曾良の個人的なものである為「旅日記」の様なものは残しておらず、月日、出会った人や行動についての詳細はわからない。(岡本耕治著「曾良・長島日記」)
 この後曾良は第二の古里ともいえる伊勢の長島へと向かう。しかしこの元禄15年の長島ではこの時大変な事件が起こっていた。
 次回はこの伊勢松平藩最大の危機について詳細に検証してゆきたい。