韓の俳諧 (15)                           文学博士 本郷民男
─ 芭蕉二百回忌の時 ─

 明治26年(1893)は、芭蕉二百回忌で、俳句の歴史で画期と言えましょう。五十回忌や百回忌でも芭蕉を神格化する行事が行われましたが、二百回忌は頂点に達しました。これに先立つ明治20年には其角堂永機が芭蕉の墓前で、7日7夜の大法要を行いました(勝峯晋風『明治俳諧史話』394~409頁)。三森幹雄は東京深川に芭蕉神社を建立して、神式の二百年祭を盛大に行いました(大谷弘至「芭蕉神社考ー芭蕉二百年忌における芭蕉神格化」『二松俳句』24号)。知られていないのですが、上田聴秋が京都の東福寺に芭蕉の句碑を建立し、それに韓の俳人も出資しました。
 明治26年9月発行の『俳諧鴨東新誌』96号に、建碑義捐の出資者が書かれていて、その中に次のような名前が見えます。
朝鮮 元山 比田勝春湖君
同     大塚蒲帆 君
 この建碑は、東福寺通天橋の傍らに建てた芭蕉の「古池や」の句碑のことです。
芭蕉の句碑は、もともと芭蕉塚や翁墳(おきなづか)と呼ぶ芭蕉の墓です。古くは芭蕉翁とだけ書いて、俳句を書きませんでした。ともあれ、芭蕉二百回忌には、こうした墓が各地に建てられました。
 東福寺は臨済宗の巨刹で、通天橋から見る紅葉は、京都の寺院でも最高でしょう。そこに、明治26年11月19日、すなわち旧暦10月12日の芭蕉忌に、芭蕉の墓である巨大な句碑を建てたのです。
 『俳諧鴨東新誌』96号には、春湖の投句が21句も載っています。
34点 散桜春も限りの景色かな
38点 梅咲くや菊此の方の隠れ里
45点 雲に杖引きし噺や不二詣
99点 有る筈の月も桜に隠れけり
91点 菊の世は捨てて頭巾の主かな
94点 待つ恋の一夜は長し時鳥
98点 虫の声共に打ち込む砧かな
100点 水仙や寒さを雪の走り咲く
 あまりに多いので、一部だけにします。殆どの句に点数が付けられ、最初のほうは50点満点です。『俳諧鴨東新誌』には投句数の制限がなく、当季でなくて四季の句を出せます。この月の春湖は、点取りの総合得点1位を狙って、在庫品も含めた大噴火の投句をしたのだと思われます。蒲帆のこの月は4句だけで、マグマを貯蔵する作戦でしょう。上位になると賞品を貰えるし、何よりも名誉心を満足できます。
 『俳諧鴨東新誌』には朝鮮という地名と俳号しか書いてないので、元山(ウォンサン)という地名と、比田勝と大塚という姓がわかる出資者の名簿は貴重です。この号には他にも朝鮮として、山翠の4句、菊文の1句が載っています。三森幹雄が芭蕉神社の建立にあたって募集したのに応じた人々は、ほとんど関東地方です。それに対して東福寺の句碑には、西は韓半島、北は渡島(おしま 北海道南部)の函館や江差の人も義捐しました。