曾良を尋ねて (133)           乾佐知子
─岩波庄右衛門正字と対馬国についてⅡ─

5月11日対馬藩士三浦貞右衛門の日記によれば、当日巡見使土屋数馬様の御用人の岩波庄右衛門からきつく詮議された様子が詳しく書かれており、正字が対馬藩に対してかなり厳しい目を持っていたことが判る。
 対馬藩の略年表を調べてみると「宝永3年(1706)旅人吟味役を置き、理由なき旅人を本土に刷還させる」とあり、当時は身元の不確かな人間が多く対馬を訪れていたと思われる。そのうち何名かは公儀から送られた者だった可能性がある。幕府も以前から対馬藩の荒っぽい貿易の仕方に不審感を持っていたのではなかろうか。
 幕府が高齢でしかも今は現役を引退しているであろう正字を呼び出し、今回の巡見使の一行に加えたのには何か理由があったのではないか。しかも、慣れた東北や関西地方ではなく、最も遠い筑紫方面である。当時は小舟で玄界灘を渡り五島を往復することは決死の覚悟がいったと思う。事実つい7年前には朝鮮の一行が、対馬の沖で遭難し全員溺死したばかりだった。
 然し正字に与えられた仕事はそれだけではなかった。対馬藩探索という重大な命が下っていたのではなかろうか。となれば正字のことである、対馬藩のことに関しては何ヶ月も前から克明に調べあげている筈である。当然対馬藩が緊張して対策に必死となっている理由も判る。勿論これ等は全て私の憶測に過ぎぬのだが、実は出発の前年に正字から諏訪に来た手紙にそのいきさつを窺わせる一文があった。
   歳 暮
 あはれただ過し 日数はあまたにて
  さてしもはやく 年ぞくれ行

 六十六部は凡卑なればとてとどめられぬ
 猶將(なおはた)筑紫下りの志はやまず
春に我乞食やめてもつくし哉曾良
 巡見使の一行に、六十六部の衣裳を持って行きたいと言ったのである。しかし上役から「六十六部は凡卑なれば」と言って止められたので諦めた、というのだ。これは〝凡卑なればとて〟止めるのは当然である。今回の任務は表向きは御用人という公人であり、幕府の公務遂行の姿でなくてはならない。
 正字とてそんなことはよく判っている筈である。しかし彼にとって真の姿は諜報人として長年つちかってきた情報網を駆使した仕事に他ならない。その為には六十六部は最適な服装ということなのだ。願わくばこの一式を使わずに無事帰還出来ることを祈ったであろうが、結果はどうであろうか。
 長崎県で活動しておられる俳句団体の「太白」という結社によって、今から60年前(昭和34年6月)に出された「曾良二百五十年忌」の記念号を、私が執筆を始めて間もない頃、かれこれ11年前になるが、「万象」の内海良太氏よりいただいた。今回この本が大変参考となり感謝している。執筆者は井本農一先生をはじめ壱岐の郷土史家の山口麻太郎氏の重厚な論文や白石梯三氏の年譜等盛り沢山で、次回はこの本を参考に話を進めてゆきたい。