曾良を尋ねて (135)           乾佐知子
─曾良の終焉に関する一考察 Ⅱ─

 曾良の終焉については現在さまざまな学説が出されており、歴史上最も有名な壱岐にて客死したという定説と、それ以後も数年以上榛名山にて生存していたのではないか、という「本土生存説」、そして対馬にも曾良の墓が残存する、という記録もあり長年の間曾良研究者達にとっては実に悩ましい事柄なのである。
 壱岐死亡については、多くの学者達によって研究し尽くされている感があり、関係文献も全てこの説で統一されている。従って、改めて今回説明する必要はないのではと思ったが、これらの異なった説には各々曾良の新たな謎も含んでいると思われる個所もあるので再度記しておきたい。
 宝永7年(1710)正字62歳。5月19日巡見使の一行は、対馬へ向けて出発する為正確な人数を三浦貞右衛門がその覚書に記している。
 「 数馬様御上下四十四人。内一人御家老、二人御用人……」と。
 この時点で人数に変動がないことが判る。ところが、その直後に正字は体調を崩し宿舎の海産物問屋の中藤五左衛ゴザ衛けられて3日後の22日死亡してしまう。
 そして巡見使の一行は、後の始末を中藤家に託し26日対馬に向けて出発した。遺品は後日、中藤家より諏訪に送られたという。これが歴史上定説となっている曾良終焉の概要である。
 ところがこの用人が死亡するという大事件を、対馬藩の役人である三浦貞右衛門は全く知らなかった。むしろ知らせなかったのであろう。壱岐滞在18日の間片時も離れず世話をしていた案内人に知らせることなく出発したのである。このことは一体何を意味するのか。対馬に知られては何かまずいことでもあったのか。実際用人の死亡を対馬藩が知ったのは、半月も後のことだったという。
 そして巡見使の一行は無事に対馬に着き任務を終えて次の五島に渡った。ところが何とこの対馬にも曾良の墓があったという江戸時代の記録が出てきたのだ。
 嘉永元年(1848)曾良没後138年。対馬藩士・中川延良(号楽郊)が著した「楽郊紀聞」に(俳諧師曾良が墓所、対馬の開山塔の傍ら、以酊庵従者の墓のある処にあり、といひ伝えあれ共、文字もなくて、いづれとも知れがたし、唯古く聞伝へたり)
 嘉永元年といえば幕末の動乱期。この時代にすでに俳人曾良の名は西海の孤島にまで伝わっていたのであろうか。
 ところで中藤家で息を引取った曾良の体は、当家の菩提寺である能満寺に丁重に葬られたという。先祖は肥後熊本城主の加藤清正に行き着くという中藤家。当然幕府との繫がりはしっかりあった。草創期の幕府にとって、たとえ最果ての島々といえど国境の最前線に位置しており、決して気を抜くことはなかった。
 曾良は対馬海峡を臨む高台に静かに眠る。墓石には「賢翁宗臣居士 江戸住人 岩波庄右衛門尉塔 宝永庚寅天五月廿二日」とある。