韓の俳諧 (67)                           文学博士 本郷民男
─ 亞浪の第二回旅行①─

  臼田亞浪は1935年9月から10月に、2回目の満洲(中国東北部)・朝鮮旅行をしました。「石楠」の創刊が1915年(大正4)なので、創刊20周年です。そこで、4月には雅叙園で記念大会を開きました。1月には京城で「石楠」系の俳誌「長栍」(ちょうせい)を創刊しました。韓国にはチャンスンという道祖神があります。長い木柱の上に人の顔を彫り、その下に「天下大将軍」か「地下女将軍」と書くので、将軍標とも言います。チャンスンを昔は長栍(チャンセン)と言いました。栍は韓国の国字で、漢字というより韓字です。
 「石楠」20周年と「長栍」創刊という他に、石原沙人(秋朗1898~1979)の働きかけがありました。沙人は拓大で中国語を学び、大陸に骨を埋めるつもりで、ずっと中国で仕事をしていました。1928年に満鉄に入り、当時は奉天鉄路総局で弘報係主任をしていました。職位は低いものの、臼田亞浪を業務として無料で全行程案内するからと、満洲へ誘ったようです。沙人は中国語に堪能で鉄道に精通しているので、最良の案内人でした。
 「長栍」8月号に、旅行の日程案が載っています。9月15日に東京を出発し、16日に敦賀から船に乗り、18日に今の北朝鮮東北部の淸津(チョンジン)着、20日には満洲に入ってしまいます。10月18日に奉天から韓半島へ戻り、京城や慶州(キョンジュ)を経て、23日夜には釜山から船に乗るといった日程です。つまり、満洲で一ヶ月近くを過ごし、韓半島は通過した程度です。実際の日程をみると、慶州で1日増えました。そして、念願の仏教遺跡を見ています。忙しい日程ですが、亞浪はけっこう多くの俳句を詠みました。また「石楠」と「長栍」に、他の人達の手記が載っています。
 亞浪は9月15日夜10時東京発の急行で、西へ向かいました。今回は東京からの案内人無しでした。伊吹山が見える頃に眼が覚めて、米原で降りました。三田十寸穂が米原から敦賀まで同行してくれました。今は敦賀を裏日本という失礼な呼び方をしますが、当時はロシア航路などがあって、表日本でした。敦賀から3、462トンのさいべりあ丸に乗って、午後3時に出発しました。17日は船の中で、18日の朝7時に淸津港へ着き、石原沙人の姿を見て安堵しました。

9月17日 船中で
いるか飛ぶ秋を晴れたる潮路にて船ゆれて来にけり秋の積乱雲

9月18日 淸津第一歩
擔軍(チゲ)は老いたり港の朝の冷やけく 

 第1回旅行の釜山上陸では子供の擔軍(荷物担ぎ)に会って「われも旅人擔軍の子すがる麗けし」という句にしましたが、この句では俳句という荷を長年担いだ自分が、老いたことを詠んでいます。