「晴耕集・雨読集」7月号 感想 柚口満
千枚の千を余さず夕蛙伊藤伊那男
スケールの大きなダイナミックな蛙の声を詠んだ一句。その舞台は千枚田。千枚田というと私は能登の輪島の白米千枚田と房総は鴨川の大山千枚田ぐらいしかしらないが、二つとも千枚田百選に入っている。
掲句、上五から中七までの「千枚の千を余さず」だけ言って収めた省略が素晴らしい。千の田圃の千のすべてで鳴き交わす夕蛙の大合唱、その迫力の根源は千というキーワードが産んだものだと気づくのである。 夕方、ひとしきり鳴いた蛙はある時間がくるとピタリと鳴き止み千枚田は蛙とともに夜の闇に沈むのだ。
帰宅してしばし灯さず花疲沢ふみ江
今年の花見はコロナ禍の六波と七波の間にあり、比較的人出も多かったと記憶している。「花疲」という季語、ひとつには人出の多さと花見で歩く疲労感もあろうし、または満開の桜の美しさやその圧倒感からくる疲労もあるのであろう。
作者は花見を終えて夕方自宅に辿り着いた時点でしばらくは灯を点けなかったという。もちろん体力的な疲労感もあったに違いないが、加えて爛漫と咲き誇っていた花の影の威圧感をも鎮めるための行為だったのかもしれない。
夫と来しハンカチの木の花の丘萩原まさこ
ハンカチの木がありその木に咲くのがハンカチの木の花、私が初めてこの花を目撃したのは新宿御苑であった。垂れ下がる大きな包葉がハンカチに見えることからの名で夢を誘う花である。歳時記に採用され出したのも最近である。
この句は今は亡き夫との思い出の景を句にしたもの。丘の上にある象徴的な大木のハンカチの木、その木に花が咲くと見に行くのが慣例になっていたのだろうか。俳句に詳しい作者が旦那さんにその珍しい花を教えたのかもしれない。ロマンのある季語が動かない。
惜春やゆたかな笑みの師の遺影岡村優子
前書きに「俳人協会の新聞の写真」とある句。新聞「俳句文学館」の4月号に僭越ながら小生が棚山波朗前主宰の追悼記事を書かせていただいた。その時の写真を詠んだ一句が掲句である。写真は同人の松川洋酔氏に頼み込み近影でとにかく笑顔のものを、と無理を言ったら破顔一笑の素晴らしい写真を見つけてくれた。
本格的な春の到来を待たずに逝ってしまわれた波朗先生、その写真のゆたかな笑顔に涙した方々も多かったのではなかろうか。
猛獣の檻を自在に蝶の昼酒井多加子
動物園の猛獣の檻を前にした嘱目吟。一般に猛獣といえば肉食で性格が荒々しい獣をいうが、掲句の猛獣は百獣の王といわれるライオンあたりが想像できる。
檻を自在にというから、この蝶は荒い檻の隙間を縫って自由自在にライオンのまわりを飛びまわっている。当のライオンも我関せずと悠然と見遣っている感じ。猛獣に小さな蝶を配し真昼の長閑な動物園の一風景を描写した。
うすうすと水田明るし春の月清水恵子
肩を怒らし大上段に振りかぶった作品ではないが優しく柔らかな雰囲気に満ちた一句である。
田植えを前に眼前には水を満々と湛えた水田が広がり、折しも登り始めた春の月が明るく水面を照らし出した。春の月ではの情感溢れる光景である。
この句を読んで明治時代に一世を風靡した絵画の朦朧体という技法を思い出した。横山大観らが試みたもので絵の輪郭に線を用いずに彩画するというもの。何も影をもたない水田に朧月、まさに朦朧とした春の夜の風景である。
桜貝手種に偲ぶ能登の海飯牟礼恵美子
日本各地の浜辺で目にする桜貝。桜の花びらのように美しいので春の季語とされる。手種(てぐさ)は手であそぶものの意。桜色の貝を掌に先日訪れた能登の海を偲ぶだけでなく、寂しいお別れとなった棚山波朗前主宰への鎮魂の句ともなっている。法名「句能院釋春海」へ深悼の誠を改めて捧げたい。
遥かより呼ばるるやうに鳥帰る石田瑞子
秋に渡ってきた鳥たちは春になるとまた北方を目指して帰ってゆく。毎年繰り返されるこの営み、自然の摂理といってしまえばそれまでであるが心に感じ入るものがある。この句は鳥の北帰行を遥かより呼ばれるように懸命に帰ってゆく、と断じたところに魅力が生まれたのではなかろうか。
北国のひと月の春惜しみけり布施協一
この句にある「ひと月の」という表現にインパクトがある。我々の実感からいうと春の季節は早春、仲春、晩春にわたる三ヶ月と決めつけるわけであるが、北国青森は一か月という実情に想いを致さなければならない。その期間が短いだけにその春は凝縮された風情が濃く、惜春の思いも強いことが伺われるのである。
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