「耕人集」 9月号 感想 沖山志朴
黴匂ふ謡本より父の声春木征子
謡本は、謡曲の詞章が書かれている傍らに、節付けの譜を記した本のこと。「謡本より父の声」から推測するに、すでに父君は他界されたのであろう。
使う人もなく、しまわれていた謡本をふと開くと、黴の匂いが鼻を突いた。しかし、手垢にまみれたその謡本を開いて眺めていると、生前よく謡の稽古をしていた父の声が懐かしく聞こえてくる気がする。旧懐の念に作者は浸るものの、言葉を省略し、感情を抑え、感傷の句に終わらせていないところがよい。
我が村の燕となりて翻る鳥羽サチイ
近年の地方の人口減少には著しいものがある。また、都会では燕が営巣できる建物が減少し、燕の数も減ってきている。掲句には都会ではなく、人口が減り寂しくなったこの村によくきてくれた、というひそかな喜びが表現されている。また、下五の「翻る」には燕へのエールの気持ちも込められている。
現代社会の抱える課題をそれとなく踏まえながら、俳味のあるユニークな燕の句にまとめた。
染めむらの藍が風呼ぶ夏帽子関谷総子
染めむらは、手を抜いたのではなく、帽子の制作者がデザインとして意図的に工夫したものであろう。作者もおそらくそのデザインが気に入っていて、この夏帽子を出かけるときは愛用しているであろう。
夏帽子の藍色の染めむらが風を呼んで、一瞬涼しく感じたという作者。視覚と触覚の句であるが、感覚が繊細であるとともに、詩情を醸し出すための「染めむら」への焦点化が効を奏している。作者のセンスの良さが覗える。
子規の句を添へて出さるる夏料理鈴木ルリ子
なんとも粋な句である。子規のふるさとにお住まいの方の作品。子規のほかにも虚子、波郷、碧梧桐など松山を中心として、愛媛県からは多くの著名な俳人が生まれた。そして、今でも多くの人が俳句を愛してやまない地で、「俳都松山」という言葉も目にしたりする。
子規については、健啖家としても知られている。子規の残した、日記をはじめとするさまざまな文章の中には、食に関する話題が多く出てくる。掲句の舞台は街の料理屋さんなのであろうが、出された夏料理に子規の句が添えられていたという。俳句を格別愛する地域性や、病魔に侵され、不自由な生活を強いられた中でも、食にこだわりを持ちつづけていた子規のことを考えながら鑑賞すると、掲句は一層味わい深い句となる。
羽拔鶏飼ひて長江下る船鍋島こと
長江は、中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川で、全長はなんと六三〇〇㎞もある。中華人民共和国およびアジアで最長であり、世界でも第三位の長さ。日本の川とは比べ物にならない。荷物の運搬などをしながら川船で暮らしている人も少なくないが、掲句の鶏も、船員やその家族が卵を食べたり、食肉用としたりするものなのであろう。
船で鶏を飼っている、ということだけならば目新しい句にならない。「羽抜鶏」という季語を設定したことで、確かな生活感や親近感が生まれた。また、とかく外国での嘱目吟は季語の設定など難しさがある。しかし、掲句は捉えた景が巧みで、外国での嘱目吟という違和感や難しさを感じさせない点もよい。
木下闇より人声の下りて来る高村洋子
この木下闇は、山道の麓に近い下り坂になっている場所なのであろう。その木下闇を抜けるように人の声が賑やかに、そして楽しそうに聞こえてきた、というのである。
「下山道の木下闇の中から」とでも表現したいところを、作者は下五に「下りて来る」を措辞することで、「下山道の」の言葉を省いている。また、「人が下りてくる」ではなく、「人声の下りてくる」と擬人化したところも、余情を生むうえで効果的である。作者の感性の繊細さを感じさせる句である。
庭隅の蛍袋を刈り残す野口栄子
袋の中に蛍を入れて遊んだことから名付けられたともいわれる蛍袋。身近に咲いている可憐な花の一つである。庭の他の雑草は次々と刈ってしまっても、花の咲いている蛍袋だけは、特別な思いがあるのであろうか、作者には刈り採ることができなかった。
普段多くの句を読んでいると、道端に咲く草花でも、俳人として特別な情がわいてくることがある。掲句の蛍袋にも作者は特別な愛おしさを感じ、しばし佇んだ結果なのであろう。
梅雨の灯や吾が名忘るる母とゐて髙草久枝
「吾が名忘るる」の「吾が」の解釈に一瞬迷った。作者の名前であれば、「子の名」と表現するであろうから、やはり「母自らの名前」と解釈するのが妥当であろうという考えに至った。
一緒に暮らしている高齢の母親に認知症の症状が出て、自らの名前すら忘れることがある。懸命に面倒を見る作者。普段は、格別辛いとは感じないのであるが、ときにふと心の疲れを感じることがある。そんな一瞬の心の緩びを詠った句である。高齢化時代を迎えて、同じような思いをされている人は少なくない。また、自らの将来のことを考えたとき、決して他人事ではないとも思う。作者がさらりと一句を詠いあげていることに多少の救いを感じる。「梅雨の灯」の季語を象徴的に用いているのが印象的である。
おしやべりの笑ひに咽せる心太楢戸光子
仲間とおしゃべりをしながら楽しく心太を食べていたところ、その酸味に思わず咽せてしまい、なんとも苦しい思いをした、という句。よほど楽しい話題であったのであろう。
心太の句を作ろうとするも詠い古された内容になってしまい、断念することも珍しくない。その点、掲句は楽しいおしゃべりと取り合わせることで、明るく広がりのある句にまとまった。男性にはなかなかこのような句はできない。語調もよく整っている。
逝く父の唇濡らす山清水佐藤文子
今まさに死を迎えようとしている父の唇を、汲んできた山の清水で濡らしてあげた、という嘱目の句である。
山清水は、生前父を含めての家族がお茶やコーヒーを淹れるのにわざわざ汲みに行き、使用していたものであろう。その清水で唇をぬぐう。作者の脳裏には、さまざまな思い出が去来したであろう。感情を抑え具象を通して叙情を見事に詠いあげている。
司令部壕門扉の銹びて夏の蝶諸喜田邦夫
昭和19年に掘られた司令部壕。米軍の艦砲射撃に耐えるために長さは四五〇メートルあったといわれ、中には四千人からの兵士が収容されていたとも。当時のままの門扉も今はすっかり錆びついていて、そこへ夏の蝶がひらりと飛んできたという。
戦争末期、圧倒的な米軍の兵力の下、多くの兵士や島民が虫けらのように殺されていった。錆びた門扉と対比される夏の蝶は、まさにそのような無残な死に方をした兵士や島民の魂を象徴しているように感じられる。なんとも心の痛む句である。
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