「耕人集」11月号 感想  沖山志朴

新涼のひと窓ごとに絵付の座 ?村征子

 大きな陶器工房を見学した折の句であろう。ガラス窓が並ぶ。それぞれの窓の向こうには、絵付けの職人さんたちの座が設けられている。今は、昼時なのか職人さんたちの姿は見えないが、机上にはたくさんの筆が立てられ、顔料が雑然と並んでいる。
 「新涼」の季語には、さらっとした心地よい涼しさのイメージがある。季節もよくなってきた。真剣に細かい作業に集中し、素晴らしい作品を作り上げる職人さんたちの無言の姿を想像しながら作者は進む。「ひと窓ごと」の措辞がよい。   

お鼻井の底の暗さに金魚棲む 平つ満

 お鼻井は、毎年春耕の新年俳句大会が開催される高幡不動尊の境内にある浅い井戸。名前の由来は、700年ほど前、大風で不動堂が倒れた時、不動尊像が堂から落ちて鼻をついた井戸であるからだという。
 参拝者の多くが覗く井戸であるが、金魚が棲息しているようには見えない。 掲句の作者は、よく観察し薄暗い井戸の底に潜むようにして生きている金魚に気づいたのであろう。春耕の会員にもなじみの深い場所での意外な発見が一句を支えている。

川底に茶碗のかけら終戦日 山田高司

 取合せの句である。川底の茶碗のかけらと終戦日との即かず離れずの関係が想像を広げる。
 茶碗のかけらは、戦争中の空襲の被害によって生じたものであるのかもしれないし、全く関係なく、心無い人がごみとして捨てただけなのかもしれない。微妙な二物の距離が読者の想像を広げる。どこにでもあるような茶碗のかけらと、「終戦日」という重い事象の季語とを取り合わせてバランスを持たせたことも成功につながった。    

妻といふ枷も安けし夜の秋 中村岷子

 妻であるために、日常の行動や自由が束縛され、不自由な思いをすることは少なくないであろう。それを逆手に取ったところに掲句の妙味がある。束縛があるほうが却って心の安穏が得られるというのである。
 「夜の秋」は、夏の季語。夜になって秋の気配が漂うことで、立秋に先がけて用いる。今年の夏はとりわけ暑かった。「枷」と「安けし」との配合もよい。

日に幾度天仰ぎ見る大旱 古屋美智子

 今年の長野県での旱と限らず、旱一般の句と解釈するのがよいであろう。旱は農家にとっては収穫を左右する深刻な問題である。
 旱は、かつての時代においては神頼み。今日では、天気予報もかなりの精度で当たるようになった。予報が出れば、今降るか、今降るかと農家の人々はやきもきして天を仰ぎ、雨雲を待つ。何度も外に出ては、天を仰ぐその心理は決して大げさではない。「日に幾度」はそのようなやきもきする関係者の心理を象徴している。  

処暑の卓トースト高く飛び上がる 鈴木知子

 「飛び上がる」の措辞が効果的である。「飛び上がる」は自動詞。擬人法を用いることで、まるでトーストに意志があるかのように表現されている。
 殺人的な暑さも峠を越えて、いよいよ新涼も間近な「処暑」。万物がようやく本来の生き生きした活動を取り戻す。それを俳味十分に、象徴的に表現しているところが面白い。

岩風呂にともしび一つ虫時雨 雨森廣光

 ほっと安らぎを覚えるような句である。岩風呂に灯るのは、一つの仄かな明かりのみ。そこで作者は、周辺から聞こえてくる「虫時雨」を聴いている。
 人の少ない遅い時間帯の露天風呂であろう。作者は、岩に背を預けては目を閉じ静かに虫の音を聴いている。日々の生活の中のしがらみも、遠い過去のいやな記憶もいつしか遠のいていくような心境なのであろう。隔絶された癒しの場での癒しの時間である。
 
夕暮れてなほ背の丸き蝗捕り 百瀬千春

 蝗は戦後の食糧難の時代などにおいては、貴重な蛋白源として日本全国で食されていた。とりわけ長野県は、日本の昆虫食のメッカともいわれるくらい盛んに蝗が捕られていたようである。県の一部の地域では、食料が豊かになった今でも、「敬老の日」などにあえて「蝗捕り」に挑戦している人々がいるとも聞く。
 「なほ背の丸き」は、蝗捕りに夢中になっている様子の象徴であろう。高齢の方であろうか。捕り始めたら、ついつい夢中になりだし、日が暮れるのも忘れているというのであろう。日本の暗い歴史を忘れてはならないと教えてくれているような句でもある。