「耕人集」 6月号 感想  沖山志朴

退院の浮き立つ足や木の芽晴鈴木博子

 退院できたことの内なる喜びと、まだ十分に回復していない体力とのギャップが見事に表現できている。
 久しぶりに見ると、街路樹にもすっかり春の景色が整っていて、青空の下、小さな芽が輝いている。退院できた喜びから、気持ちは先へ先へと急ぐものの、足が十分に付いて行かないもどかしさ。それにしても、外の空気のじつにすがすがしいことよと、改めてその喜びをかみしめる。 

空耳に揺るる音あり花木五倍子伊藤克子

 句意は、空耳なのであろうが、木五倍子の風に揺れる影が、まるでかすかな音となって聞こえてくるような気がするよ、というもの。聴覚と視覚を融合させた感覚の句。
 ともすると説明に終わってしまいがちな異なる感覚の組み合わせでありながら、詩情の溢れる個性豊かな句にまとまった。それは「空耳に揺るる音あり」の表現の巧みさにある。独特の感覚の世界を描ききった。

たんぽぽや手折れば絮のさわがしき中村岷子

 たんぽぽの絮の美しさに魅せられ、そっと手折ってみた。すると、びっしりと着いている絮の一つ一つが、何事が起ったのかとでもいうように、騒ぎ出したという。まるで、お伽の世界に入り込んだようなメルヘンチックな句である。
 擬人法を用いた下五の「さわがしき」が効いている。自然の中の片隅に生える一草に過ぎないたんぽぽであるが、作者の心は、正面から対象に向き合い、内言としての会話を楽しんでいる。「や」は間投詞的に置かれた呼び掛けであり、語調も整える。 

何事も無かりしごとく桜咲く竹越登志

 新型コロナウイルスの脅威、あるいは社会に与えた甚大な被害や影響を踏まえながら読まないと、掲句は理解できない。
 新型コロナウイルスにより人々が恐怖のどん底に突き落とされたり、社会が混乱したり、命を落としたりする人がいるのに、そんなことは全く関知しないかのように、桜の花は例年と同じように咲き誇っているよ、というもの。社会的出来事とは全く関係のない自然の永々と続く営みとが、一句の中に対照的に配置されている。当然、早くいつものような安心して暮らせる社会に戻ってほしい、という強い願いが一句を貫いている。  

波のどか海鳥並ぶ船溜り大塚紀美雄

 「のどか」は春の季語。掲句においては、穏やかな波の形容として使われている。春の長閑な明るい景色を、波に象徴させているやや特殊な用法である。
 海鳥は、鷗なのであろう。船溜りの堤防に、連なるように安らいでいる光景。おそらく、十分に餌も採れたのであろう。厳しい冬も去り、万物に明るさがうかがえる。

こんこんと音がひかりに芹の水高瀬栄子

 こんこんと勢いよく湧いている水量の豊かな泉の縁に芹は生えているのであろう。聞き耳を立てると湧き出る水の音が密かに聞こえてくる。
 「こんこんと音がひかりに」は聴覚が視覚へと転移、融合された表現。水が盛り上がる水面に、光が集まってくる状況を巧みに表現している。瞬時の光景に焦点化して表現している点も効を奏した。作者の感性が光る。  

旅継いで友を尋ぬる西行忌井川勉

 「旅継いで」は、鉄道を乗り継ぐこと、景勝地を観て回ること、そして、泊を重ねることを意味する。
 西行といえば、だれでもすぐに旅を連想するくらい旅にゆかりのある歌人である。今日でも、旅人西行と縁のある地名が各地に残っている。例えば文治2年に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため、二度目の奥州下りを行った際の小夜の中山などである。掲句の作者も、懐かしい人との再会を楽しみにしながら旅を続ける。そんな途次、ふと西行の心情を思いやったのであろう。よくまとまった忌日俳句。

鯨飛ぶ慶良間ブルーの波しぶき上原求道

 冬場に、出産と子育てのために、沖縄の温かい海にザトウクジラがやってくる。その鯨を目当ての観光船もなかなかの人気だそうだ。目の前で見る鯨の迫力は、人々に大きな感動を与えるが、鯨のこのダイナミックなパフォーマンスは、雄同士の喧嘩、求愛行動、体の汚れを落とすための行動などといわれているが、正確なところはわかっていないようである。
 澄んだ海と眼前に跳ねる鯨との対照が目に見えるようだ。黒、白、ブルー、色彩感覚に富んだ躍動感のある句である。