「耕人集」 10月号 感想             髙井美智子 

しよはしよはとやかまし古都の蟬時雨 菱山郁朗

 古都京都の夏は蒸し暑く寺社巡りも容易なことではない。鹿苑寺と言われる金閣寺の池の周りの松の下を歩くと、頭上から直下に降りかかるような蟬時雨に出会う。作者の聴覚の鋭さから「しよはしよは」という面白いオノマトペが生み出され、臨場感に溢れた句となった。雅な佇まいとは裏腹に、猛暑の中の蟬時雨は更に暑さを増したことであろう。
 この苛立ちを「やかまし」と言い切った思い切りの良さが作者の感情を言い当てている。古都との不釣り合いな「やかまし」の措辞が俳諧味を醸し出している。   

雨雲を蹴散らし響く大花火高橋ヨシ

 長岡にお住いの作者ならではの信濃川の「長岡まつり大花火大会」の一句である。今年は、戦禍や震災を乗り越えてきた「長岡魂」の象徴である長岡花火を「慰霊・復興・平和」の想いとともに、新型コロナウイルスに負けない不屈の決意も伝える大会であった。 
 花火
大会は生憎の雨雲の中、後半にさしかかると待ちに待ったフエニックスが打ち上がった。何十発ものスターマインを同時に打ち上げるような見事なもので、雄大な信濃川の夜空を埋め尽くす。人々の心配もなんのその、大花火の音や光の迫力が雨雲を退かせたようだ。この情景を「雨雲を蹴散らし」の措辞で見事に表現できた。                                  

生き抜きて二律背反鰻食ふ伊藤宏亮

 少しびっくりした俳句である。上五の「生き抜きて」は病気などを乗り越えて生き抜いたのではなく、精神的にこの世を生き抜いた作者の苦しみが感じられる心象風景の句である。どちらを選択するか判断できない場面に何度か出会ったことだろう。下五の「鰻食ふ」の季語が小気味よく響き合っている。すっぱりと鰻を捌く景の連想から、作者も難題を割り切ることもあったことだろうと推察した。
 一方更なる俳句を求める姿勢として、独自の感性で写生を深めることを怠ってはならないと思う。  

園庭に鈴虫の鳴く午睡時萩野智子

 朝から賑やかな保育園であったが、お昼寝の時間になるとカーテンも閉められ物音もしない。静かな園庭の草叢から鈴虫が鳴き始めたようだ。自然豊かな園庭の様子が窺え、このような環境で育まれる子供は伸び伸びと成長することだろう。子供への深い愛情が感じられる作品である。 

涼しさや山頂駅は雲の中高瀬栄子

 山頂駅とはどこであろうかと想像がふくらんでくる。箱根登山鉄道もその一つである。下から登る電車から見上げると、山頂駅は「雲の中」に閉じ込められていたようだ。ぐんぐんと雲の中へと進む電車。涼しさは格別であったことだろう。 
  
川上へ海霧に追はるるかもめかな須藤真美子

 広大な海霧が海から浜辺を越えてどんどん押し寄せてきた。視界が遮断されたかもめは川上へと逃げ込んでいるようだ。この光景をかもめが海霧に追われていると独自の発見をしている。「海霧に追はるる」という擬人化で海霧の迫力も伝わってくる。眼前のものを身近に引寄せ、生き生きとした句となった。 

西瓜浮く生簀に群るる鯉の影池田栄

 鯉を飼っている生簀を利用して西瓜を冷やしているようだ。生簀の水を裏山から引いている場合などは炎天下でも良く冷える。今も残っている日本の原風景を詠った懐かしさを覚える句である。鯉の赤と西瓜の緑の色の映像も鮮明に浮かび上がってくる。ぷかぷかと浮かぶ西瓜に鯉が戯れているようだ。
 いつの間にか電気製品に溢れた私たちの生活は、便利であるがどんどん味気ない生活に陥っているのかもしれない。

打水の後や木椅子を父に置く廣岡澄子

 打水をすると涼しい風が生まれてくる。ここにお父さんの木椅子を置くという作者の優しさに、心をうたれた。この空間と時間のなんと大切なことか。親孝行とはなんでもないこんな心配りかもしれない。お父さんも目を細くして涼んだことだろう。

蚊遣火のほたりほたりと時進む高橋栄

 蚊遣火とは、よもぎの葉の青葉などを火にくべて、燻した煙で蚊を追い払うことである。除虫菊を原料とする渦巻き状の線香は蚊取線香という。
 中七の「ほたりほたり」のオノマトペで青い草がゆっくり燃え落ちている様が浮かんでくる。作者は野の草を摘み取り、万葉人のごとく優雅を楽しんでいるようだ。下五の「時進む」の感覚的な表現で時の流れの静けさが伝わってくる。時を進むとして感じるのは、忙しく動いているよりも、静かに落ち着いている場合なのかもしれない。