「耕人集」 9月号 感想                          高井美智子 

捨て切れぬ母の背あとの籐寝椅子岡本利惠子

 長年愛用していた籐寝椅子は籐の編み込みが緩み、お母さんの背の丸いあとが残っている。きっとこの籐寝椅子ですごす緩やかな時間を大切にされていたのであろう。少し軋み始めたので捨てようかと迷っているのである。使い込まれた籐椅子には温もりが残っているようだ。

水やりの米寿の根気茄子の花高橋ヨシ

 今年の夏は猛暑と雨の少ない日々が続いた。自然の恵みの雨だけでは、植物は枯れてしまうほどであった。毎朝水やりをしている米寿を迎えられた方は、戦争などをくぐり抜けて来たので根気強さは、並大抵のものではない。米寿ともなると重労働は避けるが、水やりならできるのである。
 茄子は大方が水分なので、花の状態から水やりをすると立派な茄子ができそうである。今年は雨不足で茄子の生産農家では、一部の茄子がふかふかで出荷出来ない品もあったようだ。                                  

子蟷螂数珠繋ぎして吹かれ飛ぶ廣仲香代子

 蟷螂が孵化する貴重な様子を観察した句である。冬を乗り越えた蟷螂の卵鞘から夏のある日に、一斉に100匹から300匹の子蟷螂が生まれつぐ。生まれたばかりの子蟷螂は卵から孵化したときに、すでに成虫と同じ格好をしている。これが縺れるようにつぎつぎと生まれて来る。お互いが縺れ合いながら風に吹かれる様を「数珠繋ぎして」いると言い当てることができた。この観察力が素晴らしい。子蟷螂はこれから過酷な自然淘汰に身を置き、最終的には2~3匹しか生き残れないという。   

皆帰り盆提灯の灯の揺らぎ小林美智子

 新盆には久しぶりに近しい人達が集まり、その接待であたふたとしていた。皆が帰ってしまうと急に淋しさが襲ってくる。盆提灯の灯が作者を慰めるかに揺れていた。しみじみとした寂寥感がつのってくる一句である。 

餌やりのたびに金魚に語りかけ高村洋子

 この金魚はずいぶんと長生きをしているようだ。餌やりのたびに金魚に語りかけている光景が微笑ましい。こんな長閑な時間があると心の疲れも吹っ飛ぶようだ。金魚は毎日話しかけられると作者の声や言葉を覚えるのだろうか。嬉しそうに尾を振るのだろうか。つぎつぎと想像の範囲が膨らんでくる。肩を張らずに日常の生活の一齣を読み取った心あたたまる一句である。

潮騒のとどく廃校大夕焼小田切祥子

 壺井栄の小説『二十四の瞳』の映画の撮影場所であった小豆島の田浦分校は、まさにこの句の情景を髣髴とさせる廃校である。戦後に発表されたこの小説は戦争が教師や生徒達にもたらした苦難や悲劇を描いている。この分校は、昭和46年に廃校となったが、映画の撮影場所として今も保存されている。穏やかな瀬戸内海の潮騒の届く校舎である。下五の「大夕焼」で眼前の広大な海の広がりが見えてくる。 

米櫃の米生ぬるき半夏生完戸澄子

 毎日研いでいる米櫃の米が生ぬるいと感じ取った作者の触覚の鋭さに敬服する。米研ぎはあらゆる台所の仕事の一環にあるので、忙しさに追われて米に触れる触覚のあれこれなどを感じる余裕もない。そんな中でも一瞬の感覚を大切にして、一句に仕上げている。
 怪我などで外出ができない時などは、このように身近なところに素材が転がっているのを見つけ出す良い機会でもある。 

燕の子空の高さを測りかね古屋美智子

 燕の子がやっと飛べるようになると、飛行の練習が始まる。親燕の飛び方を真似ているが、高く飛ぶには羽根をバタつかせて、やっと一定の高さまで到達できる。親燕のように高く空を切るような飛び方はまだできない。この状況を中七から下五にかけて「空の高さを測りかね」と擬人法を用い面白い表現で成功している。

竹落葉空気掃くごと集められ関野みち子

 竹落葉は良く乾くと重さを感じさせない。これを箒で掃くと捉えどころがなく、まるで中七の「空気掃くごと」の措辞のようにふわりと集められる。類想のない作者独自の捉え方である。

雪渓の風が背を押す弥陀ヶ原池田春斗

 月山の8合目にある弥陀ヶ原湿原は、夏には100余種の高山植物で埋め尽くされる。月山から吹き下ろす風を「雪渓の風」と断定していることから、作者が雪渓のある頂上から下山しているのだろうか。俳句は言葉と言葉との間の空白を読み手が想像して景を広げる文学かもしれない。