「耕人集」 5月号 感想                          高井美智子 

天空の春を吸ひ込む麒麟かな中嶋正樹

 「天空の春を吸ひ込む」という大胆な表現に戸惑いを覚えたが、それが麒麟だとわかると納得させられた。春になると麒麟も長い首をさらに長くして、悠々と天空を仰ぐようである。動物園などで麒麟が間近に寄ってくるとその高さの迫力に圧倒される。子どもの目の位置から見あげると、まさに「天空の春を吸ひ込む」ように見えることだろう。

がうがうと谷底走る雪解水高橋ヨシ

 雪解水は山のそちこちが解けて流れ出てくるが、終に泥水となって谷から川へと溢れ出す。その勢いは谷底の大岩をつぎつぎと呑み込むほどの水量である。流れの音はいつもの谷の静けさから一転し凄まじい音となり、オノマトペの「がうがう」そのものである。掲句はこのような雪解水がどっと溢れだした時の光景であり、作者の聴覚も一気に働き始めたかのようである。轟音は深い谷に谺し、さらに大きく空へと膨らんだことだろう。                                   

嫁ぎたる子の部屋に置く紙雛赤萩千恵子

 嫁いだ子の雛は押入れに眠っているのだろうか。今までは毎年飾っていたが、その子が嫁ぎ大きな役目を果たした雛である。何も飾らないのは落ち着かず、空き部屋となっている子の部屋に紙雛を飾り、なにかほっとした作者である。
 私は孫が大きくなった頃から、心の穴を埋めるように嫁いだ子の雛を自分の為に飾るようになった。    

何ものかかけゆく空や春一番島﨑芙美子

 春一番が駆けていく空は、雲までもちぎれ飛ぶようである。遠い南の国から、全速力で駆け抜けてきたであろう生温い風に違和感を覚える。この捉えどころの無い空の様子を「何ものかかけゆく」と感じ取った感覚が見事であり、選び抜かれた措辞で言い表されている。 

薄氷を掬へばもろき光かな河内正孝

 薄氷を見ると棒で突きたくなる。そっと手で掬ってみると、すぐに壊れそうなもろさがある。この薄氷の光を独自の視覚的感性を働かせて「もろき光」と捉えたことが秀逸である。薄氷を見るだけでなく、手に触れてみた好奇心旺盛な作者のお手柄の一句である。

まだ温き末黒野踏みて子ら下校山下善久

 昼間の風のない日に野焼きをし、子らが学校から帰る頃には終っており、野焼き跡の焦げ臭い末黒野となり、すっかり火も消えている。悪戯好きな子らは末黒野を踏みつけて遊びながら帰っている。じんわりと靴の底から温みが伝わってくる。現場での体験を体で感じ取った貴重な句に仕上がった。 

マヌカンの振りを我が身も春愉し日置祥子

 マヌカンとはマネキンのことでもある。ショーウィンドウに美しく着飾ったマヌカンに引きつけられて、ついつい衝動買いをしてしまった。マヌカンの素敵な佇まいの振りを真似てみた。他人からみれば勘違いと思われるかもしれないが、身のこなしも軽やかになった。なにやら体中が浮き浮きして、外出の計画が待ち遠しくなってくる。新しい洋服を身に纏うと心が弾んでくる一面を素直に詠みとった句である。

恋猫の遠出してゐる無人駅平良幹子

 恋猫が無人駅で逢瀬を重ねているのであろうか。誰にも邪魔をされない無人駅の暗闇を唸っている。今までは猫の姿を見かけなかった無人駅なので、ずいぶんと遠くから来ているのかもしれない。恋猫の走り去る速さは猛烈な勢いであり、遠くまでくるのは容易であるはずだ。作者の逞しい想像力が活かされた一句である。

レタス苗の息吹に曇るハウス内古屋美智子

 レタスは萵苣(ちしゃ)の副季語である。スーパーでは四季と関係なく販売されており、サラダには欠かせない生野菜である。レタスの苗をハウス栽培している光景を詠った珍しい作品である。科学的には外との寒暖差でハウスが曇っていると判断してしまうが、作者の鋭い感性が中七の「息吹に曇る」と捉えたことに感銘した。俳句の力で詩情溢れる世界が広がった。

黒川能貫目蠟燭よくもゆる佐藤照子

 500年の伝統をもつ黒川能。掲句は蠟燭だけの灯りで演じる「蠟燭能」のことであり、柔らかく揺らめく炎に映しだされる舞は、500年前の先人が観たであろう光景と変わらぬ姿を見せてくれる。「蠟燭能」はその原点にもどり、蠟燭の灯りだけで能を演じようという試みを氏子や若手が中心となり、地元黒川で守っている。1貫目(3.75キログラム)の大きな蠟燭をそちこちに灯らせて幽玄の世界が繰り広げられる。
 作者はこの蠟燭の灯りが消えることなく、何時間もよく燃え続けていることに感銘をうけ、原始的な灯りの黒川能に酔いしれているようだ。