「耕人集」 6月号 感想                          高井美智子 

花に酔ふ弁天池の揺らぎかな村上啓子

 満開の桜が揺れ映る弁天池で、弁天様も琵琶を奏でながら花見をしているような景が髣髴としてくる。上五の「花に酔ふ」の捉え方にとても新鮮さを感じた。心を解放した作者は、池の揺らぎがまるで花に酔っているようだと感じたのである。弁天池だからこそ、「花に酔ふ」の表現がいきいきとしてくる秀句である。

やはらかに午後の日差しや花筵春木征子

 桜が咲く頃は、朝はまだ肌寒さを感じる。花筵にお弁当を広げ、ゆっくりと花見を楽しんでいると気温も少しずつ上がってきた。この変化を「やはらかに午後の日差しや」と素直に表現している。ゆっくりとした時間を過ごしていることが伝わってくる。                                   

野ざらしのフランス人形修司の忌関野みち子

 寺山修司は、俳句・短歌・劇作など多彩な能力を発揮し、「言葉の錬金術師」「アングラ演劇・四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名をもつ。青森にある三沢市寺山修司記念館には、修司が愛用した「大山デブ子」という人形が飾られている。自作の映画や演劇にも登場する創造物の一つである。
 「修司の忌」の季語により、上五から中七にかけての「野ざらしのフランス人形」から、様々な物語が生まれてくるようだ。対照的な二物の取合せが効果を発揮した二物衝撃の珍しい取合せの句である。    

如月や眉を濃く描き検診へ石井淑子

 如月の頃は眉の辺りが敏感さを増してくるようだ。検診結果が少しでも良くなるように、眉を濃く描いたようである。今は大方の検診は血液検査で、嘘のつけない結果がでてくると解かっていても、自分を奮い立たせるために眉を濃く描いたようである。
 細見綾子の句に「きさらぎが眉のあたりに来る如し」がある。 

波に乗り波を追ひ行く落椿小川爾美子

 上流の谷に落ちた藪椿が、流れているのであろうか。真っ赤な落椿が流れている景に巡り合い、波に翻弄されながら流れる椿を見つめて感じ取った即物具象の見事な作品である。一瞬のシャッターチャンスを逃さずに撮った映像のような作品である。

ひつそりと昔花町落椿平石敦子

 花町は花街とも言われる。新潟の古町周辺は、明治時代になると遊廓は消え、芸事が中心の花柳界へと変化した。昭和初期には新橋・祇園と並び三大花街と呼ばれるほどの賑やかさであったという。戦禍を逃れた趣のある粋な佇まいが残されており、芸妓が稽古をする三味線、太鼓、笛の音が聞こえてくることもある。芸妓を守る保存会もあり、町おこしの一役を買っているようである。
 上五の「ひつそりと」の省略の利いた表現で、花町の静けさが伝わってくる。「落椿」の季語により、花柳界のあでやかさとその衰退に思いを馳せる余韻の残る句となった。 

イノーの海家族総出の潮干狩上原求道

 「イノー」とは、沖縄の方言でサンゴ礁に囲まれた浅い海のことである。このような広い磯辺での潮干狩を家族総出で楽しんでいる。家族の絆を大切にする沖縄の人々の一面をみるようである。お年寄りも日焼けした顔で、子ども達と一緒に潮干狩りに夢中になっているようだ。

耕すや誰とも会はぬまま暮れて日浦景子

 農業も機械化が進み短い時間で仕事が終わるので、畑で人々が働いているのを見かけなくなった。昔は少し離れた畑の人と、大声で会話をしている長閑な風景があった。田圃道で遊ぶ子どもの姿も見かけず、夕暮れまで一人で黙々と耕した作者である。心に残る一句である。

老桜の根方に満蒙開拓碑渡辺牧士

 満蒙開拓とは、昭和6年の満洲事変以降の満洲国建国直後から昭和20年の敗戦までの間に、日本各地から満洲・内蒙古に開拓民として27万人が移住した国の政策である。敗戦直後の混乱の中で止むなく自決に至った人や収容所で病にかかり飢えと寒さで斃れた人など尊い命を失った。
 長野県などではこれらの満蒙開拓団の碑があちこちに立てられている。満蒙開拓碑を包むかのように桜の古木が寄り添っている。戦争の悲惨さを今も伝える碑であり作者も思いを深くしたことと思われる。

手拍子のピアノ教室花の雨太楽登美子

 ピアノ教室の先生の手拍子に合わせ、ピアノを弾いている生徒のようである。無機質なメトロノームの単調な音よりも、手拍子の方が子どもの聴覚を上手く刺激するようである。雨の日は室内の子どもの歌声や笛の音やピアノの音等が敏感に心地よく聞こえてくる。