古典に学ぶ (95) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 『源氏物語』に描かれた「病(やまい)」③─    
                            実川恵子 

 ゆらゆら揺れる生命力の漲る髪の10歳前後の少女の顔立ちは、光源氏に何か大切なものを思い起こさせる。「いみじう生(お)ひ先見えてうつくしげ」「ねびゆかむさまゆかしき」と、この少女がもう少し成長したらどんなにか美しいだろう、成熟したらどのような顔になるのだろうかと、想像し、光源氏の視線は、その少女に吸い寄せられてしまうのである。それは、少女の顔に藤壺の面影を無意識に探っていたことに光源氏は気づき、強く動揺するのである。
 光源氏が北山で垣間見た少女は、自身でさえ自覚しえなかったあの憧れの人、藤壺そっくりである。それを思うだけで、源氏の目には涙が浮かぶ。その涙は、藤壺への離れがたい執着と、抑えがたい情念そのものであった。
 この涙をこぼす光源氏の姿から、読者は、冒頭の桐壺巻以来、危ぶみ恐れ、また予感されてきた藤壺への抑圧された思いが、ある一線を越えてしまったのだと直感させられる。物語は光源氏と藤壺とのことを顕わに語らないが、光源氏が藤壺との罪深い関係に傷つき、どんなに苦悩していたかを語っている。だからこそ、もう破滅しかない藤壺への迷妄の執念をなだめ、代理的に晴らすためにも、光源氏はこの藤壺生き写しの少女を何が何でも手に入れようとする。そのためか、古柴垣の庵での一晩の滞在を決めたのであった。その夜の闇に響く様々な音は、少女への執着を一層高め、ついに堰を切ることとなる。

 君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそそき、山風ひややかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて、音高う聞こゆ。すこしねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろなる人も、所がらものあはれなり。まして、思しめぐらすこと多くて、まどろませたまはず。(若紫)

 山寺の雨、風の音、滝の淀みの音は、読経の低くつぶやくような伴奏によって、光源氏の悩ましい思いを引きずりだし、底流にうずまくものを立ち上がらせてくる効果がある。まさに、読者の思いを搔き立てる機能を持つ、素晴らしい叙述部分であると思う。
 そして、それらの音に促されるように、光源氏は尼君に声をかける勇気を振り絞る。将来、少女を自分に託してくれるよう打診し、なんとか連絡だけは取れるよう、話はついたのである。
 北山での光源氏の「わらは病み」治療は、僧都の加持祈禱と、さまざまな「見る」ことの治療、夜の音を聞くことによる気づきによって、光源氏の前に展開される世界は、癒しによって、救済され、再び明るさを取り戻し、悩ませていた「わらは病み」も「なやましさも紛れはてぬ」と、完全にどこかへ消え失せてしまうのであった。
 「わらは病み」はしばしば「童病」と書かれ、子供に多いとされる病である。光源氏は、12歳で元服したにもかかわらず、大人になりきれず、少年時代に持った藤壺への思慕を引きずり続けていたが、この北山で、犯した罪の意識を自覚することで、その混迷から抜け出す手がかりをつかむことになる。精神的にも、身体的にも、危機的状況にあった「わらは病み」を克服することができたのであった。そして、『伊勢物語』初段の、初冠を済ませた「昔男」のように、人を愛する能力を回復し、本当の意味で大人になることに一歩を踏み出すことができ、都へと帰って行くのである。光源氏の「病」は、大人への通過儀礼でもあり、人間としての再生の物語でもある。