古典に学ぶ (100) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 柏木の病と死②─
実川恵子
六条院の東南の春の町で、柏木・夕霧などの若い世代によって行われた桜の花の下の蹴鞠は、息苦しい「蔭」への挑戦のように、蹴鞠の鞠が高く蹴上げられ、桜を散らし、六条院の秩序世界に裂目を入れていく場面として描かれている。
始めに光源氏が提案したのは、蹴鞠ではなく、静かで、秩序を乱すことのない「小弓」であっ
た。しかし、若者たちの選んだのは、激しい動きを伴う「乱りがはし」い蹴鞠であり、その意向に圧されて、光源氏はしかたなしに蹴鞠に踏み切ったのであった。
心配した通り、若者たちの身体の躍動は、光源氏の静かで穏やかな調和の空間をかきまわし、活気づけ、華やがせ、やがて乱していくのである。
爛漫と咲きほこる桜の下、光源氏や蛍宮という旧世代の第一人者の見物だけでなく、若き女三宮とその女房たちもその蹴鞠を見物しているという、まさに若者たちの心をくすぐるような晴れがましい舞台が、今始まったのである。蹴鞠の鞠が高く上がり、回が重なるうちに、徐々に興奮が高まってくる。初めはゆっくりと、そして次第に、くせのある鞠を蹴上げ、時がたつにつれてその動きが荒くなり、激しくなっていくのは当然のことであったろう。そして夕映えのあえかな光の中、男たちの緊張感はやがて興奮が宿り、普段の取り澄ました外見からは窺い知れない内なる狂熱が顕わになる。その熱気に冠を、衣服を綻ばせ、息を弾ませて、日常の抑制を脱ぎ捨てた男たちの生々しい身体の「乱れ」が、響いてくるように描かれる場面であろう。中でも、夕霧の親友である柏木は、ひときわ美しく、鮮やかな鞠の技術やその身のこなし、足さばきは際立つ。
盛りの桜に、鞠が蹴上げられるたびにはらはらと零れ落ちる様子は、まさに眼前に迫り、美しい一服の絵画のようである。毎回読む度にその見事な筆法に感嘆させられる。
大将の君も、御位のほど思ふこそ例ならぬ乱りがはしさかなとおぼゆれ、見る目は人よりもけに若くをかしげにて、桜の直衣(なほし)のやや萎なえたるに、指貫(さしぬき)の裾(すそ)つ方すこしふくみて、けしきばかり引き上げたまへり。軽々しうも見えず。ものきよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝すこし押し折りて、御階の中のほどにゐたまひぬ。(若菜上巻)
(大将の君《夕霧》も、そのご身分の高い程度を考えると、「いつもと違う乱暴な騒ぎようだな
あ」と思われるが、わきから見た目には、人より一段とまさって若く美しく桜がさねの直衣の、少しやわらかくなったのに、指貫の裾のほうを少し膨らませて、ほんの形ばかり引き上げてはいていらっしゃる。その姿は軽々しくも見えない。なんとなくさっぱりとしたくつろいだ姿に、桜の花びらが雪のように降りかかるので、それをちょっと見上げて、鞠があたってたわんでいる枝を少し折り取って、階段の中段あたりに腰をお掛けになった。)
光源氏の息子の夕霧は、蹴鞠にふさわしい「桜の直衣」を身につけ、蹴鞠の衣装としての指貫の裾を動きやすいように上げかげんに結び、若さと品格が備わり、階段の中ほどで一休みしている。その脇にある桜に鞠があたり、夕霧の直衣に花が雪のように散らしかけている。絵画のような艶やかな光景である。その時、夕霧の心中に蠢く女三宮への関心に注目したい。西側の廂(ひさし)の間で蹴鞠見物しているらしい女三宮を意識して、夕霧は「しをれた」桜の枝を折り取って、弄びながら、ポーズを決めているのである。
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