コラム「はいかい漫遊漫歩」         松谷富彦

(170)虚子は愛弟子をどう評価していたか(上)

 2019年は、高浜虚子の没後60年。椿寿忌(4月8日)に因み、本欄の同年4月~6月号で虚子が戦後俳句をどう評価、鑑賞していたか、“肉声の記録 ”を復刻した『虚子は戦後俳句をどう読んだか―埋もれていた「玉藻」研究座談会』(筑紫磐井編著 深夜叢書社刊)を紹介した。

  その際、洩れたが、高野素十、星野立子と言う虚子にとって“身内の俳人 ”を研究座談会の弟子たちの前でどのように評価していたか、2人に対する発言記録のさわりを書く。

[第31回研究座談会]

ベルツの像スクリツパの像初桜素十

虚子 線が太い。直線で描いたやうですね。

虚子 [学会があり、学会に出席した俳人と句会をしたのだ(立子)]大倉喜八郎の別荘だったと思ふ。同人会の医者の集まりだった。

大宿坊大蔵王堂冬の山

大噴火口岩つばめ雨つばめ

早苗束濃緑植田浅緑

女満別西満別秋の風

虚子[語感から来るリスムの力で感情を伝えている(深見けん二)]大きな役目をしてゐますね。

冬山に吉野拾遺をのこしたる

虚子 [主になっているのは「吉野拾遺」か(立子)]やっぱり『吉野拾遺』だらうね。冬山に人間が吉野拾遺をのこしたといふんでせうね。冬山に哀史を遺したといふことを、吉野拾遺を遺したといったのだ。出来上がりがいいね。すぽっと言って居る。ほんとの作家である。近頃のごたごたした句とは比較にならぬ。

甘草の芽のとびとびの一ならび

虚子 これもうまいですね。あたりが無限に広がってゐるやうに思ふ。秋櫻子であったか、此句の悪口を言ったのは。この句からものの芽俳句といふことを言って素十をけなしはじめたのは…。[素十と共に百花園の句会へ秋櫻子を誘うと「諸君とものの芽の俳句を作りますか」と渋々一緒に行った(立子)]

虚子 武蔵野探勝か何かで古利根へ行った時が、秋櫻子とはお終いだった。川のそばで独り句を作ってゐると、向ふから秋櫻子が一人遣って来た。どうしたんだろうと思ってゐたらろくに句も作らずに帰ってしまったんだ。秋櫻子には重きを置いてゐたのだが、『去るものは追はず』といふかねての主義で其のままにして置いた。(次話に続く)

(171)虚子は愛弟子をどう評価していたか(下)

 俳誌「玉藻」に7年間に渡って掲載された研究座談会から虚子の肉声記録を抜き出す作業にあたった『虚子は戦後俳句をどう読んだか』の編著者、筑紫磐井さんは書く。

〈 研究座談会における虚子の評言を読んでみて、ホトトギス系作家の中でも、高野素十、星野立子、京極杞陽の3人への虚子の評価が極めて高いことが分かった。それは、この研究座談会を読めばわかるように、3人の言語原理が虚子の言語基準に適合し、虚子の進めようとした言葉の展開によくかなっていたからである。〉と。

 虚子に指名された若手の一人で研究座談会にメンバーとして終始参加した深見けん二さんも証言する。〈 虚子は立子の句を、みんな褒めちゃうようなところはありますね。私は、立子に直接聞いたことがありました。その時立子は、「私はじっと見るのはあんまり得意じゃないのよ。だけど私は、心がすぐ季題と一つになるのよ」って言ったんです。もうこれは花鳥諷詠の真髄なんですね。季題と一つになればあとは言葉がどうできるかというだけなんです。〉

 〈 虚子は客観写生について、花鳥を写し取ることを繰り返すと「その花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心が動くままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずるようになる」と言っています。立子という人は、これがまあ詩人と言うんですかね、それが自由にできる。これはもう私は立子俳句の真髄だと思ってるんです。〉

 [第33・27回研究座談会]

吾も春の野に降り立てば紫に立子

虚子 春の野は五形花(註・蓮華草の別称)、菫、蒲公英の類が咲き満ちてゐる。

  色は模様だが、その中でも紫の色が強い。其上霞んでもゐる。其中に天使の如く降り立つた自分は又紫だ、と自負したやうな心持ちがある。子どもらしい空想画とも言へる。

めぐりとぶ蝶に縛られをる思ひ立子

虚子 これも、立子の主観。蝶に縛られてゐるといふ。その飛んでゐる蝶と離れることが出来ない。斯ういふ句は出来損なった時には困るが、うまく出来た時には、響きがある。

研究座談会のメンバーで唯一存命だった深見けん二さんが、今年9月15日に逝去された。享年99歳。「花鳥来」主宰。句集『花鳥来』で俳人協会賞、同『日月』で詩歌文学館賞、同『菫濃く』で蛇笏賞及び山本健吉賞を受賞。