古典に学ぶ (111) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─「宇治十帖」物語の病と死⑥ 八宮の病と死ー
実川恵子
薫が宇治の山荘を訪ねた時、八宮は山寺での念仏会のために留守で、心寂しい姫君たちは、折からの月に興じて端近にいる。琵琶と琴を弾く美しい姉妹の姿を竹の透垣の戸を、少し押し開けて垣間見たのである。
(もうひとりの物に寄り添って横になっている人は、琴の上におおいかぶさるようにして月を眺めて、「入り日を招き返す撥はたしかにあったけれど、月を招き返すとは、風変わりなことを思いつきなさるお心だこと。」と言って、ほほえんだ様子は、もう少し重々しくて、奥ゆかしい感じであった。「撥で月を招き返すことは出来なくても、この撥も月と無関係なものではありませんわ。」などと、たわいもないことを、うちとけて話し合っていらっしゃるお二人の様子は、見ないで想像していたのとは全く違って、たいそうしみじみと身にしみてなつかしく、風情がある。)
この二人の姫君のうち「琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにし」ているのが、中の君(次女)、「沿ひ臥したる人は、琴の上にかたぶきかかりて」の方を大君と解釈するのが通説だが、他の巻の描写等などから、その逆とみる説もある。性格の描写、楽器のどちらを重視するかで見方が変わる。引用の本文から、「琵琶」を弾く姫は「らうたげに、にほひやかなる」(かわいらしく、つやつやと美しい)とあり、「琴」の方の姫は「いますこし重りかによしづきたり」(前の君よりもう少し重々しく、奥ゆかしい感じであった)とあり、この叙述を重視して、「らうたげなるさま」を中の君、「深く重りかに」を大君として解釈するのが適切であろう。
薫は、都ではほとんど恋愛らしい恋愛はせず、宇治で初めて八宮の娘たちにアプローチをするのだが、それはなぜか。もし自分が光源氏の子でなかったら失脚するかもしれない。その際、相手の女性を巻き込みたくないという配慮から、深い関係を避けていたのではなかろうか。しかし、八宮たちはもともと光源氏に退けられていたのでそんな心配はせずともよいと思ったのか。彼らなら、自分が光源氏の本当の子ではないということになっても、支障をきたさずに関係を続けられるに違いないと考えたのだろうか。そして、この二人のうちの、姉大君により惹かれるのだが、大君もとても真面目な女性で、父親の「つまらない男に騙されてはいけない。そうなるくらいなら、おまえたちはこの宇治で生涯を終えなさい」という遺訓をまともに受け取って、薫が求婚してきても「妹のほうがふさわしいでしょう」と言って拒んでしまうのである。この時代の結婚は現代のような自由恋愛ではなく、女性方が相手を婿取り、経済的に支援することが原則であったので、大君自身が結婚してしまっては世話をする人がなくなる。だから妹と結婚させ、自分が世話をしようとしたのである。
薫は拒絶する大君の姿勢に遠慮して自分の思いを強く伝えることができない。その後、姫君たちとたびたび手紙が取り交わされ、思慮深い大君にますますひかれていく。また、このころ、自らの出生の秘密を知り、思い悩む。
そんな折、山寺に籠っていた八宮は、薫に次のように告げる。
(宮)「人だにいかに知らせじ、と、はぐくみ過ぐせど、今日明日とも知らぬ身の、残り少なさに、さすがに、行くすゑ遠き人は落ちあぶれてさすらへむこと、これのみこそ、げに世を離れむ際のほだしなりけれ」と、うち語らひ給へば、心苦しう見奉り給ふ。(薫)「わざとの御後見(うしろみ)だち、はかばかしき筋には侍らずとも、うとうとしからず思し召されむとなむ思う給ふる。
しばしもながらへ侍らむ命のほどは、一言(ひとこと)も、かくうちいで聞こえさせてむさまを、たがへ侍るまじくなむ」など申し給へば、(宮)「いとうれしきこと」と思し宣ふ。 (「橋姫」巻終盤)
と、薫に死後の後事と姫君たちの後見を依頼し、山寺に籠っていた八宮は8月20日ごろ、病を得て亡くなってしまわれたのであった。
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