はいかい漫遊漫歩 松谷富彦
(192)冬凪ぎて砂に小貝の美しく 吉屋信子
掲題句の作者、吉屋信子が昭和48年(1973)に77歳で没して半世紀が過ぎた。大正5年(1916)に雑誌『少女画報』に連載した「花物語」で人気を集め、3年後の同8年、大阪朝日新聞の懸賞小説に当選した「地の果まで」で文壇デビューを果たす。
代表作の一つ、昭和26年(1951)に毎日新聞に連載した「安宅家の人々」が翌年、大映で映画化(主演・田中絹代、船越英二)され、同じ年に「鬼火」で第4回日本女流文学者賞を受賞。
話が戻るが、大正8年(1919)に発表した作品「屋根裏の二處女」で自らの同性愛体験を明した信子は、4年後、終世のパートナーとなる3歳年下の元女学校数学教師の門馬千代と“運命的な ”な出会いをする。以後、千代を秘書役にして、昭和40年代にかけて少女小説、家庭小説、伝記小説のジャンルで人気の流行作家となった。
俳句とは、昭和17年(1942)に文学報国会の女流文学者会で俳人の星野立子、中村汀女と知り合ったのと2年後の昭和19年に鎌倉の大仏裏に疎開したことから、やはり東京から鎌倉に疎開していた高浜虚子を訪ね、教えを乞うたのが始まり。このときのことを信子は朝日新聞に連載した「私の見た人」の虚子の章で記す。坂口昌弘著『文人たちの俳句』(本阿弥書店刊)から引く。
〈 俳句を学びたいと虚子に挨拶すると、虚子は指先で小さい輪を作り、そこをのぞく顔をして、俳句は小説と違って、ごく小さい狭い部分を見つめることだと言ったことを伝えている。「私はフィクションとかウソのつくりごとはきらい」と言ったとも書いている。「門下の人々は単に虚子を俳句の師と仰ぐだけでなく、それ以上に《心の拠りどころ、精神の支え柱》として虚子を信仰していたからだった。まさに虚子はホトトギス教団の大教祖の感があった」と、信子はホトトギス同人と知り合った経験に基づいて言う。〉
信子の記述を紹介した坂口は〈「…教団の大教祖」という言葉は、伝統俳句を批判する俳人批評家がよく口にする言葉だが、信子には揶揄する気持ちは一切ない。…信子は非難の意味ではなくむしろ率直な気持ちで書いている。虚子を尊敬する人も非難する人も、同じ精神的な評語になっているのは興味深い。〉と書く
信子は、鎌倉に疎開中に石田波郷の「鶴」加藤楸邨の「寒雷」続いて師事することになった虚子の「ホトトギス」にも投句を始めた。「俳句の不思議な魅力を思う。」と日記に書き留めている信子は、昭和26年(1951)に東京に戻った後、作家活動多忙で投句は途絶えがちになりながらも、句作は続け、久保田万太郎の「いとう句会」や「文春句会」などの文人句会には顔を出していた。 (次話に続く 敬称略)
(193)蝉も哭き人も泣きけり今日真昼 信子
掲題句は昭和20年8月15日の日記に書かれた句で、「ラジオに泣きて向う。」とあり、戦争終結を告げる玉音放送を聴いての句である。前話に続いて、『文人たちの俳句』(坂口昌弘著)から引く。
蚊帳釣りて険しき世をばへだてたり
今日の憂さ蚊帳の外へと脱ぎにけり
坂口は上の2句を「小説家らしい物語性を持つ句 」と言い、さらに次の4句を上げ、〈「ホトトギス」に投句していたからと言って写生句とはかぎらない。「ホトトギス」の秀句が写生句というのは誤解 〉だと書く。
まことより嘘が愉しや春灯
百合活けて聖母の処女を疑がはず
羅に不貞の相の美しや
夏帯にほのかな浮気心かな
そして記す。〈 (信子は)小説家として、真実よりも嘘を書くほうが愉しいと思っていたようだ。(2句目は)キリスト教の奇蹟である聖母マリアの処女懐胎の話を、嘘を好んだ小説家として疑っていなかったと詠む。科学の時代においても世界中の多くの人々が、精子によってではなく聖霊によって身ごもった聖書の話を信じているのは信仰の力であるが、人は奇蹟を信じたがるようだ。〉と。
3句目は、羅を着た女性の姿に作家らしい想像が働き、不貞の相を見つけ、その美しさ詠んでいる、と坂口。一時、小説家を目指した虚子も同句を「十七字の小説」と看破、鑑賞している。
夏帯を締めた女性にほのかな浮気心を幻視した4句目の句について、詩人の八木忠栄も〈 夏帯をきりっと締めて、これからどこへ出かけるのだろうか。もちろん、あやしい動機があって出かけるわけではない。ちょっとよそ行きに装えば、高い心の持ち主ならばこそ、ふと「ほのかな女ごころ」が芽ばえ、「浮気心」もちらりとよぎったりする、そんな瞬間があっても不思議ではない。この場合の「浮気心」にも「夏帯」にもスキがなく、高い心が感じられて軽々には近寄りがたい。「白露や死んでゆく日も帯締めて」(鷹女)――これぞ女性の偽らざる本性というものであろう。この執着というか宿命のようなものは、男性にはついに実感できない世界である。〉(『増殖する俳句歳時記』)と鑑賞。
吉屋信子俳句でよく知られる季語「初暦」3句。
手のつかぬ月日ゆたかや初暦
「誰もまだ知らぬ手のつかぬ新しい月日が一ぱい並んで居るという句で、この神秘のような感動はすばらしい。」と作家の滝井孝作が絶賛した句である。次の2句は信子の母親が亡くなる前後の詠句。
初暦知らぬ月日は美しく
母の逝く日は知らざりし初暦
〈 亡くなる前の昭和24年の初暦の時には、これからの1年は美しく過ごせると期待していて、母の死を全く知らなかったという世の無常を詠んでいる。〉と坂口。
終世の伴侶だった門馬千代が周囲の応援を得て、信子逝去から1年後に『吉屋信子句集』を刊行。女性の文人としては、初めての句集となった。(敬称略)
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