古典に学ぶ (121) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─「病」と「死」を物語はどう描いたか⑤ 葵上① ─
                           実川恵子 

 葵上は、左大臣家で大切に養育された、いわゆる深窓の姫君である。源氏が12歳で元服した折、16歳で結婚した女性である。もとからこの姫君には、東宮の朱雀院の妃にという話が東宮の母弘徽殿女御の実家である右大臣家からもちかけられたこともあった。もし左大臣家でそうした縁組を選択していたら、彼女は次の帝の第一の妃となり、やがては皇后の位にものぼることになったであろう。さらに、左大臣家の繁栄や右大臣家との対立関係が解消し、めでたい結末となったであろう。しかし、左大臣がそうした道を選ばなかったのは、目先の権力強化をはかるより、俗世間を超越し、思想や理念などを具体的なかたちに表すことができる源氏の魅力を最大限に評価した結果であろうか。
 また、葵上の母は、帝の妹であるから、葵上と源氏は従姉関係となり、この結婚で帝と左大臣家との関係は以前にも増して緊密なものとなった。そして、結果的に左大臣家は右大臣家を凌ぐことになったと物語は語っている。
 しかし、この夫婦の誕生は、世間的には好ましいものであったが、二人の関係は麗しいものではなかった。次第に源氏は葵上への訪れが遠のいて行った。そんな状況と同時に、17歳の源氏は空しい体験である空蟬とのかかわり、そして前回までの夕顔の急死と喪失の体験が語られる。源氏にとっては、これらの身分の低い女性たちとの関係、そして、故桐壺更衣と面影が似る、父帝の新しい妻である藤壺女御をひそかに恋い慕うのである。
 そして、これらが要因となってか、熱病にかかった18歳の源氏は加持祈祷を受けるために北山におもむき、偶然ひそかに慕う藤壺に似た美しい少女を垣間見る。
 一方、葵上は、それでも結婚してから10年たって、源氏の子、夕霧をみごもった。この時、葵上は26歳、源氏22歳の右大将で、その前年桐壺帝は位を退き、朱雀院の御代となった。心ひそかに藤壺を慕うが、なかなか逢う手立てのない源氏は悶々とした日々を送る。そんな中、前から源氏の不実を嘆く六条御息所は、御世変わりで姫君が斎宮に決まったのを機会に、共に伊勢に下ろうかと思い悩む。折しも加茂の御禊(ごけい)が行われ、その行列を見ようと懐妊中の葵上も見物に出かけた。六条御息所も源氏の晴れ姿を見ようと人目につかない網車(あじろ)で出かけたのである。ご存じの「御禊の日の車争い」の場面である。臨場感のある興味深い物語世界が描かれている。そこに至るまでは藤壺、六条御息所、朝顔、葵上の近況が語られるが、この「葵」巻の重要人物はなんと言っても御息所と葵上である。この葛藤が源氏に衝撃を与える事件の発端となり、青年源氏はやがて憂愁に満ちた壮年期を迎えることになる。そして、御息所と源氏とのさまざまなくい違いが語られることで、これが導入として「車争い」が描かれる。

 大殿には、かやうの御歩(あり)もをさをささしたまはぬに、御心地さへ悩ましければ、思しかけざりけるを、若き人々、「いでや、おのがどちひき忍びて見はべらむこそはえなかるべけれ。おほよそ人だに、今日(ふ)の物見には、大将殿をこそは、怪しき山がつさへ見たてまつらんとすなれ。遠き国々より妻子(こ)をひき具しつつも参(も)うで来(く)なるを、御覧ぜぬはいとあまりもはべるかな」と言ふを、(略)

 (左大臣家の女君は、このようなお出かけもめったになさらぬうえに、ご気分もすぐれなかったので、御禊の日の見物はまったく考えていらっしゃらなかったのだが、若い女房どもが、「どんなものでしょうか、私どもだけでひっそりと見物してみても、それこそ見ばえがしないでしょう。何のご縁もない普通の人たちでさえ、卑しい山賤(やまがつ)までが、今日の物見には、まず源氏の大将殿を、拝見しょうということだそうですよ。遠い国々から妻子を連れてまで上がって来るといいますのにご覧にならぬのはあんまりでございますと言う)。